すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

マ、ネタ、クセ

2007年09月01日 | 読書
 『伝える力』(池上 彰著 PHPビジネス文庫)に、こういう文章がある。

 一流の落語家は、とりわけ間のとり方が見事です。一瞬止めて、間合いをとったかと思うと、また立て板に水のごとく話を続けます。

 当然そうだよなと、ともすれば軽く受けとめがちな内容だが、しゃべることを仕事の一つにしている者にとってはこの事実は結構重いはずである。
 特に小学校の学級担任は多くの場合、結構長い期間にわたって限定された対象に向かってしゃべるわけだから、聞いている方が無意識のうちに構えを作ってくれるとも言えよう。それは学級では安定している面もあるが、普遍的とは言いがたいことだ。話し方を鍛えるためにことさら意識的になる必要がある。

 
 ビジネス誌の連載に、蟹瀬誠一氏が紹介したことばが、ああいいなあと感じた。
 落語の演題もネタという言い方をするが、それを楽屋ではこう書くそうである。

 根多

 「多くの演題を知り、広く深く芸の根をはらなければ」ならないからである。
 教育現場でも、「教材」が「ネタ」と称されることがある。
 このネタも「根多」であることが望ましい。
 授業が根を多く張っていく。そして学級に知的な根がはりめぐらされる。そのための材料として教材があることを改めて思う。


 同じビジネス誌のインタビュー記事に笑福亭鶴瓶が取り上げられていた。
 バラエティばかりでなく、新境地の落語を切り開いている一人である。
 「将来を考えた仕事の仕方」といった問いに対して、次の言葉を挙げたことが、なんとも落語家らしい?言い回しであった。

 癖をつけるということも大事ですね。

 ここでは「自分でお金を出す」ということを例にしていたが、行動全般に当てはまると感じた。
 教員生活を長く続けていると、自らを棚上げしながらも、見えてくることがある。
 子どもへの声かけを怠らない人、身銭をきって学ぼうとする人、ささいな変化も見逃さずに対処する人…みんな良い癖をつけてきたのだと思う。
 習慣という言い方もあるが、癖という言葉は泥臭さがあるだけにより日常に密着した振る舞いを感じさせる。