すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その比喩を使う者

2007年09月28日 | 読書
 『日本人よ!』(イビチャ・オシム著 新潮社)を読み始めた。

 プロローグは、次の文章で始まる。

 サッカーとは、人生である。

 こうした比喩は何度か目にしたことがある。「サッカー」の部分は様々に置き換えられる。
「野球とは、人生である」「競馬とは、人生である」などスポーツや競技系だけでなく、「ジェットコースターとは、人生である」とか、「列車の旅とは、人生である」なども考えられるだろう。「授業とは、人生である」…ん、これもなかなか格好いい。

 では、こうした比喩はそんなにたやすく使われていいかというと、それはまた別問題だろう。
 この比喩を使って説得力のある文章を書けるということは、やはり余程の人なのである。
 わずか3ページあまりのプロローグだが、オシムの強い言葉に私は魅せられた。

 人生で起こりうるすべてのことは、サッカーの中に集約される。

 サッカーで起こるすべてを、一生涯に引き伸ばして生きることができるのならば、実に魅力的な人生を送れるのではないか

 あいにくなことにそれほどのサッカーファンでない私であるが、その鋭い洞察力によって記される第一章以降の文章を読んでいくと、その言葉の重みがひしひしと圧し掛かってくるようだ。
 むろん、オシムは「取り憑かれている」としながらも、サッカー以外にも「人生にはたくさんの大切なことがあるのだ」と記している。それでもなおかつ、冒頭の比喩を使うということは、自らの人生そのものを語ろうと同義とも言えるだろう。

もちろん、他の人々は、違う仕事で自分の人生を象徴するものを持っている。
 
として例に挙げたのは、祖国サラエボの医師たちのことであった。戦火での学びは生涯に活かされていくという。

 この比喩を使う者は、仕事で人生を象徴できるものを持っている。
 鈍い鋼のような光を放つ冒頭句であった。