すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ほめる」の芯にあるもの

2007年09月18日 | 読書
 あるビジネス誌が30ページ強の「ほめる技術」という特集をしていた。

 インタビュー、ケース別、タイプ別、トレーニングなど、様々な視点から経営者や研究者、著名人が語っている。
 記事の全てが興味深かったわけではないが一応目を通してみて、その上達のために必要なことは三つに括れると思った。

 ほめるを習慣化する
 自分自身の視点をもってほめる
 相手に合わせてほめる

 一つ目は何より肝心なことだ。
 小学生相手であるとき「ほめ言葉」の威力を感じない教員はまずいないだろう。
 問題は、どんなふうに習慣化するかである。
 取り上げられている居酒屋チェーン店のように「ほめ訓練」を日常化させるまではいかないにしろ、そうした研修を取り上げてみてもよくないかと思う。

 二つ目の「自分自身の視点」は、言葉に気持ちを込めるためには必須なことだ。
 かつてNHK『仕事の流儀』に登場した編集者石原正康は、こんなことを言っている。

 人を動かす言葉には、常に“鮮度”があります

 自分の感じいった部分を具体的に言うことが大切である。マニュアルも大切だが、心に響く言葉はそれだけでは生まれない。言語的なもの、非言語的なものの双方を受けとめる感覚を磨くことも必要だろう。
 
 三つ目は、正直難しい。
 この場合は「相手の特性を知る」ということから始まる。「結果を誉める」「過程を誉める」「外見を誉める」「内面を誉める」…それぞれのタイプをすぐに把握はできないだろうが、反応を探りながら「相手がうれしい」ことを探り出せるかだ。
 心理学的な学びも必要だし、スキル的なトレーニング抜きでは力は高まらないだろう。

 いずれにしても、ほめることも何か溜めの形にしていかないとそう易々と「ほめる技術」は身につかないだろう。具体的に自分に課すことなしには、高まりを見せる技術などない。それも継続という条件抜きには非常に浅いものとなる。

 「自分で自分をほめる」という印象的なフレーズを口にしたのはあの有森裕子であるが、記事に載っている彼女のインタビューにも納得がいった。
 かのフレーズは、彼女が高校時代に補欠として参加した女子駅伝の開会式で、高石ともやが歌った詩の中にあったという。有森は「歌詞にはひかれたが、未熟な自分が言ってはいけない」と思ったという。

 自分をほめていいのは、もっともっと自分が高いレベルに達したときだと。

 そうしてあの言葉が聞かれたのは、初めての五輪で銀メダルをとった時でなく、ケガを乗り越えたアトランタの銅メダルの時だった。有森が耳にした開会式から十年以上の月日が流れていたのである。

 一時、流行語のように扱われたあのフレーズではあるが、時間の重み、努力の重みこそがその芯にあることを忘れてはいけない。