すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

賢治を形容すると

2008年10月26日 | 読書
 言われてみればなるほどと思ってしまうのが、表紙カバーうらの文章、また「はじめに」にも書かれてある形容のいくつかである。

 フリーター、自分探し、パラサイトシングル、シスコン

 「宮沢賢治のちから」(山下聖美著 新潮新書)を読んだ。
 知らなかったエピソードも数々あり、結構面白い。
 求道者、聖人的なイメージだけを思い描いていたわけではないが、どこか神格化していた部分も自分の中にあって、著者が紹介している情報や現代的な感覚でとらえた賢治の生涯は、また新鮮だった。

 次の一節はひどくまともであり、多くの人もきっと頷ける文章だと思う。

 「ほんたう」に行きつくための「迷いの跡」こそが、彼の歩んだ道であった。

 そしてそれは、結局「迷う」ことのできる環境であったという見方もできる。
 賢治の出自はもちろんだが、学生時代のこと、宗教をめぐる父親との対立、家出やその後の帰郷、就職、離職…どれをとってもそれらが許され、それなりに生活できたということはかなり重い事実だろう。むろん、同時期の著名な作家には似たような境遇であった者もいただろうが、賢治の場合はその変遷がくっきりしているように思う。

 全体的な印象として、弱かった賢治は恵まれた境遇の中で強さを身に着けていったように見える。それが晩年の献身的な姿として結実している。
 ただ、もしかしたらそれも「作られた姿」という部分がないのかと猜疑的に感じられるほど、賢治はブランド化されてきたという事実も改めて気づく。宮沢清六氏の果たした役割、また地元メディアの関わりについても考えさせられる。

 著者はもちろん賢治を批判したり揶揄したりしているわけではない。しかし、次のことばは結構重い。

 もはや宮沢賢治は、さまざまな媒体により再生産される、経済的価値を伴うブランドとなっていた
 
 独自の歴史的なキャラクターを持たない隣県人(私)の妬みも、少しはあるかなあ…