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読書する怠け者

2010年11月16日 | 雑記帳
 今年は、かつてないほどのペースで読書が進んでいる。
 といっても相変わらず重厚感のない本が多いし、時には読み飛ばし気味なハイスピードでめくっていることもあり、簡単に自分を誉めているわけではない。

 岩波書店の出している『図書』10月号に、泉谷閑示という精神科医の方がこんなことを書いていた。

 読書する怠け者 読書しない怠け者
 
 わずか三ページほどのエッセイだが、ううむと納得できることが多い。著書を献本した方々からの反応や感想から、読書の仕方、姿勢といったものを見抜いていく内容なのだが、次の指摘は実に考えさせられる。

 人は読書によってあらかじめ裡(うち)にもっている「経験」を深めることはできても、まったく未知の「経験」をすることはできない。
 
 確かにそうだ。小説読みは「自分以外の何人もの人生を知り、生きることが出来る」といったような言い方をすることがあるが、実はそんなに単純なことではないと思う。
 実用書を読んでもいくらかかじったこと、見聞きしたことがある内容の方がしっくりくるのは誰しも思い当たるだろう。

 もちろんここで大事なのは「経験」である。著者はこう言う。

 それは断じて、何かをしたとかどこかに行ったというような「体験」のことを指しているのではない。
 
 ではいったい経験とは何か…、著者はこうまとめている。

 「経験」とは、自身の内的な成熟のために「心の平衡を失うこと」を厭わずに「身を開いて」生きることなのである。
 そしてまた読書という営みも、「開かれた」姿勢でなされなければ、「経験」にはなり得ないものである。
 
 ずしりと重い。
 様々なタイプの読書があろうが、怠け者かどうかを分けるのが「姿勢」であるとするならば、心がけの連続でしか維持できないものであり、やはり怠け者ではできないだろう。

 かと言って、読書しない怠け者の仲間入りは遠慮したいし、まずは読書は手離さずにいたい。
 怠け者でもいいから、せめて愚か者にならないように心しようと思う。
 愚か者とは、決めつけや盲信になることであり、上の言を借りるならばそれは「閉ざされた」読み方ということである。