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南吉の「家」と「道」

2010年11月08日 | 読書
 夏に愛知へ旅行したときに立ち寄った新美南吉記念館で、『新編新美南吉代表作集』(半田市教育委員会編)を買い求めた。

 この本にある「家」という小説は、何か今まで読んだことのない、そんな感じのする一編だった。

 一人の幼児の認識が広がっていく様を描き、後半では父親と一緒に近くの村へ時計の修理に出かけ帰ってくるという平凡な流れなのだが、終末にこのような文章がある。

 こうして子供の魂にはじめて懐疑の種がまかれた。彼の住む村は、彼の住む家は、もはやもと通りの村や家ではないのであった。  

 取り立てて事件と呼べることはないのである。ただ、子供の観察が続けられ、帰りついた家、親に対しても今までとは違う感覚を持ったのである。

 評論めいた言い方をすれば、「喪失の物語」ということになろう。小説読みではない自分ではあるが、こうした類のものは結構あるのかもしれないと思ったりもする。

 では、なぜ喪失するのか。
 認識が広がるからである。
 「何かを得ることは何かを失うことである」という格好よいフレーズがあるが、まさしくその通りという気がする。

 今までこう感じていた物事であっても、そこから一つ見方が広がったときよく「認識を新たにする」というが、それは古いものが捨てられたと言い換えてもいいことで、その意味では納得できる。

 しかし、その古いものに価値がないわけではなく、それをずっと抱えてきた者にとって思いが強ければ強いほど(これは当事者でなくともそうなのだが)喪失の意味は大きい。
 喪失する場所はきっと「道」だろう。この小話に盛り込まれている「道」という逸話が、ある意味象徴的である。
 そして道は、家から出て家に続くのである。

 今さらの話ではあるが、南吉の有名な童話を喪失という観点で思い出してみれば肯けることが多い。