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こんな日に『苦役列車』

2011年03月06日 | 読書
 過日、ある人に「『苦役列車』読みましたか?」と訊かれた。
 芥川賞作品をすぐに手にするほど文学好きでもないし、その人も取り立てて感想を口にしなかったので、それだけのやりとりだったが、書店で某月刊誌が平積みされていて、つい買ってしまった。

 賞の発表があったとき作者のことはずいぶんと話題になり、新聞や雑誌などに取り上げられていたので目にしていた。それはずいぶんと興味深く感じたものだ。

 中卒・日雇い労務者・逮捕歴、そしてある私小説家の全集の発刊を目的にしていることなど、「破滅型」と名づけていいものかわからないが、最近出てくる作家として異色なことは確かだろう。

 出だしの一行から、まず躓いてしまった。

 曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へ立ってゆくことから始まるのだった。

 「曩時」は「のうじ」とかなが振られているが、いったいどういうこと。出だしの六文字は状況?地名?人名?。文末までいくと、人名だとわかるが、どこから?ということになる。
 主人公が貫多であることは、すぐにわかった。しかし名字が北町と出てくるのは結構経ってからである。
 すると問題は「曩時」。
 わからないまま進んでも別に支障はないが、気にかかるのは確かだ。
 さらに意味はわかるがほとんど使われない「年百年中」。これも意味は想像できるが、目にすることはない「後架」。
 こういう感じのことばが、ぼつぼつと出てきて、それらが吹出物のように妙にボツボツとした印象を与える作品である。

 内容はいわば人間の弱さとか醜さをどこまでも書き綴っていく。自分が抱いたことのある感情とシンクロする部分もあるし、人物の存在感の濃さは確かに面白さを感ずるが、そのエネルギーのやり場のなさに見通しがつかず、読後感はけしていいものではない。

 「だから、なんだ」と思ってしまうのは、小説読みとしては自分はやはり低級なのかもしれない。
 ただ審査員の選評に目を通したら、ああ同じ感じと思う箇所があった。高樹のぶ子の文章である。

 小説としては「何かが起こる(内的な変化)」のために、このような人物を描いて欲しい気がする。

 書き手として立ち位置が違うからと括れることだが、読者もまたそれを選んでいくだろう。自分はあまり読まないかもしれない。

 こんな日に…もうあまり目出度くはない誕生日ということだが…苦役がつながっていく未来を想像したくはない。