すぷりんぐぶろぐ

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給油待ちで、『生きる歓び』

2011年03月20日 | 読書
 3月4日に入れたきりのガソリン。地震のあった11日に実は入れるチャンスがあったのだが、スタンドの職員に「緊急でなければ」と言われて、列をつくるのを止めた経緯がある。
 幸いなことに勤務校は近いので、それほどの危機感を持たず、スタンドに並ぶ長い行列を横目で見てきたが、もう限界に近くなった。

 昨日の朝、縁者に連絡を入れたら、何とかなるという。とあるスタンドのカード会員440名分が確保されている。№423というスタンプの押された整理券をもらい、カードを借りることが出来た。
 整理券があるものの少しは早めにと並んだのが9時半前。
 それでも結局ハイオク2000円分(12.2ℓだった)が入れられたのは、正午近くになってからだった。
 会議等で出かける予定はあるが近範囲だし、あとは通勤だけであれば、4,5日は持つだろうとほっとした思いになる。

 また、本来であれば休日のなかをたくさんの関係職員が、寒い中を道路の安全確保、車の誘導や給油に頑張り、「お待たせしてすみません」と声をかけてくれることに、温かいものを感じた。
 避難所のある地域とは比べものにはならないが、ここにも一つの底力を見る思いがする。

 待たされるのは覚悟のうえだったので、読みかけの文庫本を持っていった。

 『生きる歓び』(保坂和志  中公文庫)

 昨年から少し気になっている作家である。同年代であることや、独自の視点から綴る強さのある文章に惹かれている。
 冒頭の1ページは句点がなく、言葉を書き並べて状況を語っていて、何か落ち着かない気分で読み始めることとなった。もちろん、それは作者が伝えたい思いを表すスタイルとして選択したことだ。
 
 墓地に放置された子猫をどうするかと思いを巡らすなかで、作者はこう書く。

 人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。

 「純粋な思考力」などたかが知れていて、目の前で起こったこと、見たことを基盤に思考するのが人間だということだ。
 ごくもっともなことのように思えるが、時々私たちはそこを乗り越えて物知り顔で、様々なことを語ったり、言い合ったりする。

 この時代、ごく身の周りしか見ないということは非難されるのかもしれない。しかしまたいくら目を凝らしてもテレビ画面から伝わらないこともあるし、原発問題のどの記事を読んでも自分が何かアクションできるかといえば皆無だ。

 情報を遮断するということではないが、今だからこそ自分の生活を見つめ、身の周りで動く現実に目を凝らさなければならない。
 募金や物資援助が始まっている。そしておそらく被災者受け入れなどもあるだろう。それらをどう目の前に引き寄せ、どう対応していくか、そんなふうに焦点化していくことは、生きる歓びにつながっていく気がする。

 現実はそこにあると同時に、つくりだすことでもあるのだから。