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突きつけられる重い「覚悟」

2013年12月25日 | 読書
 『総合教育技術』誌1月号の、苅谷剛彦氏の連載は「道徳教育の教科化」がテーマである。

 「アングルを変えて視れば」と記されているように、いつも氏の複眼的な思考、分析の鋭さには敬服する。

 道徳教育の教科化について対立の構図は、苅谷氏の指摘の通り「国による関与・介入の是非」「効果をめぐる議論」そして、それらを包括する「内容をめぐる論点」となる。
 氏はそうした議論を、少子化とグローバル化の文脈に位置付けて語っている。

 多文化化が確実に進む中では、道徳教育の価値内容を巡った訴訟が起きたり、他国より単一文化を装う国と見られたりする危惧があるとし、こんなふうに結論づけている。

 そこをあえて教科として取り入れるということは、対外的にも、国がそれだけの覚悟を持つということなのだろう。

 この一言は噛みしめてみなければならない。

 一つには「国がそれだけの覚悟が持つ」とは具体的にどういうことを指すのか。
 我が国の伝統的な価値観を敬いはするが、その方向への回帰だけで対応できる問題ではない。
 多文化化に対応する、新しい道徳教育内容の吟味、編成に真剣に取り組むということか。

 また、国が覚悟をしたとしても、実際の場で背負う現場教員にその意が伝わるかどうかという問題は大きい。

 道徳をめぐる論争に詳しいわけではないが、少なくとも教員になった頃は、ひどく硬直した道徳授業がまかり通っていた。それが様々な提言や実践によって少しは多様化し、いくらかマシになったとは感じている。
 同時に、地方にあっても様々な価値観のじんわりとした広がりに子どもは強く影響されているし、授業そのものの変質を迫られている気もする。

 教科化が突きつける重い「覚悟」は、授業づくりを悩ましはしないか。また逆に形式化、形骸化への道をたどらせはしないか。

 もちろん、立場・思想の違いはあったとしても、道徳の必要性を疑う人はいないだろう。
 ただ、それを「道徳教育」として学校へ導入する時にどんな形であればいいのか、大多数の同意を得ることはひどく難しい。

 「不易流行」に一定の支持があったとしても、将来の日本人に対する「不易」とは何なのか。
 これに関しても議論百出ではないか。
 覚悟をもって進めていくには、おそらく価値をできるだけシンプルにきっちりと絞り込んでいくこと、それと同時に対応(価値運用の幅とでも言えばいいだろうか)を広げるという二面性は持たねばならない。
 きっと日本人の不得意な思考だ。

 こう考えていくと、まったく違う教科の創設だってあり得るのではないか。
 さらに言えば、「総合的な学習の時間」が設けられようとしたときに、「それはスーパー道徳だ」と語られた記憶もよみがえってくる。

 思い切って教科再編はどうでしょう…ああ、どうして唐突にこんな結論になるのか。

 この程度の者がワイワイ言ったりするので、苅谷さんに心配されるのか。