すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「物語」にこだわる物語

2013年12月01日 | 雑記帳
 「物語」という言葉が散文の文学作品等を意味することは、きっと知らず知らずのうちに、おそらく小学校低学年のあたりに覚えたはずだ。

 しかし、「様々なことを話す」「特定の事柄の一部始終を話す」という意味とのつながりもあって、やや比喩的とも思える使い方があることに気が付いたのは、いったいいつ頃だろう。

 例えば「これから二人の物語をつくっていこう」とか「そこにある物語こそ肝心だ」というような表現を、なんとなく納得できた自分は、結構齢を重ねてからのような気がする。

 それでもまだ後者の「物語」の言葉が出てくる表現には、いつもちょっとした引っ掛かりを感じていた。

 今をときめく作家の三浦しをんが『新刊展望』に寄せた一節がある。

 「私には物語がすごく必要。(中略)物語でしか辿り着けない場所はあると」


 これは、ある意味で「生きる証しの希求の表現」なのかもしれない。
 作家のような自らつくり上げる仕事している者としては当然のことなのだろう。

 ともかく、辞書的であってもいいから、この「物語」という語をもう少し正確に意味づけてはくれないだろうか。

 あっ、あるかもしれない。

 と、つい先日調べ物をしていた見た記述を思い出し、再び読み返してみる。

 「物語…情報が対象の時間的特性に言及しているような形式のテキスト」


 「対象の時間的特性」かあ。
 人は誰でもある情報をもち、意識するしないに関わらず、その価値づけをしている。どんな形で意識するかが個の生き方と言えるし、それを「物語」と呼ぶとすれば、伝える相手のいる言語作用が生じるからだ。

 「内なる物語」と言ってしまって、それで終わらせることもできるだろうが、「物語」という語にこだわる自分もまた、今ここに駄文を残し、明日もまた何かを書こうとしている。

 気づかせてくれた「文科省」!(読解力向上のサイトにありました)に感謝。