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学級会を見て,想う,思う

2013年12月13日 | 雑記帳
 六年生が学級活動の研究授業を行った。いわゆる学級会の話し合い活動である。そこでふと思い出したのは、以前勤めた学校で、というより初任地で、二年目に公開研究会があり学級会を取り上げたことだ。自分にとってはとても印象深い。当時、学級会活動という「授業」は、いわば児童主導を一つの理想としていた。


 「いかに教師の出番を少なくするか」…特別活動の実践家でもあった当時の教頭先生から、それがポイントになることを教わった。要するにそれまでの準備が鍵を握る。それは、結局のところ「何を話し合わせるか」「どう話し合わせるか」「どこまで決めるか」を、表現は悪いが、いかに当日まで仕込むかである。


 議題ポストの設置から始まり、計画委員会や司会・記録の指導等々、夢中でやった。当日の記憶はやや薄れているが、司会等への助言もほとんどなく、会は進行した。まずまずの公開授業だったと思う。知り合いの年配女教師から「誰もこんなにやっていない」と声をかけられたことは覚えている。少し自信がわいた。


 さらに自信をつけたのは、翌年その子らが6年生になったときだ。その代表委員会の話し合いぶりを見た新任の校長が、「代表委員会も公開したのか」と訊くほど内容が濃く、絶賛された。ありきたりのことしかしていなかったが、一時期集中して指導したことは子どもたちを成長させ、一定の力を備えたようだった。


 転任してそうした取り組みが継続できたか、と問われると甚だ心許ない。地域環境も学級規模も違う別の場所でも指導を継続できれば、実力もついたかもしれないが、半端だったことは否めない。ただ、一貫して子どもの「やるぞ」と「許さん」は大事にしようと思ったし、依頼された雑誌原稿もそんな観点で書いた。


 今、学校現場で、子どもたちの課外指導や自主的な活動奨励に充てられる時間は、本当に少なくなっている。学級会にかける準備時間捻出には悩みが多いはずだ。しかし、だからと言って特に上学年の場合、この活動をないがしろにはできない。民主主義の一つの形を覚えていくためには、欠かせない時間と考える。


 子どもの手による「やるぞ」の実現、そして「許さん」の決議…こういう合意形成の場を、公的に保障できる時間はやはり学級活動だ。これに関わる能力や態度形成に反対する人などいない。しかし、現実には「○○教育」と名のつく諸活動推進のもとに縮まっていく現状がある。この国の将来も縮まっていくのか。