すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

本当にため息をついた訳

2013年12月19日 | 読書
 わずか4ページ足らずのインタビューだが、明快な主張が伝わってくる。
 読み終えて、ふうっとため息をつきたくなるほどだ。

 『総合教育技術』(小学館)の今月号の冒頭は作家曽野綾子へのインタビューである。

 教育再生実行会議の委員を辞任した理由から始まる。
 制度を作れば問題が解決するという方向への批判である。氏はこう語る。


 私は制度で教育はできないと思っているんです。


 「いじめ」の肯定を前提とする教育は、そもそも今の流れとは異質と言えるだろう。
 実際はその点を理解している人は多いのだが、広言できない息の詰まる環境が、今の学校教育の場ではないか。
 
 二日前にだらだら書き記した「さらされなければ…」も、結局はそういう場の空洞化への危惧である。

 氏のいわば「自己責任」と括る発想は、競争社会と結び付けられて語られることが多く、一面では危惧を覚えるが、それを踏まえてなお、学ぶ者の心がけとなり得る言葉がここにあった。


 あらゆるものは独学なんです。


 学びを自分から求めていく姿勢づくりこそが肝心と合意すること。
 設備の充実や制度の改革ではなく、今必要なことは、教育の芯となるべき指針である。


 母親から受けた教育のユニークさに、顔がほころんだ。
 娘であった氏に、二つのことを書けなければいけないとはっきり言ったそうである。


 よいラブレターを書けなければいけない。

 うまく借金を頼める手紙を書けなければいけない。



 かなり本質的なところをついている。
 自分はどうだろうか、とちょっと昔のことを思い出したが、それはまた別のこと。
 国語教育、そして「書く」ことを考えてきた者にとっては、十分励まされる声だし、強い味方はまだまだいると励まされる。


 実は、本当に、ふうっとため息をついた理由は、最後の回答にある。

 「管理職に向けてお伝えになりたいことはありますか」と問われ、次のように口を開いた。


 本当に勇気がない。


 その通りとしか言いようがない。

 右を向いたり左を見たり、前後上下にできない理由を探したりしても、結局はその一言に尽きるんだよね、と息をつくしかない。