「倍返し」。
これは基本的に復讐の言葉だ。
前提の叫びとして「やられたら,やり返す」がある。
旧約聖書にある「目には目を歯には歯を」ということか。
新約にあるイエスの「左の頬を打たれたら、右の頬も差し出しなさい」と対極にある。
さらに言えば,孔子の「己の欲せざるところ、人に施す勿れ」という教えに反する。
聖人たちの教えに逆らう論理がもてはやされる世の中の空気とは,いったいどんなものか。
弱い者が虐げられているからその代弁だ,という考えもあろう。
しかし使う人間のその矛先は,強く権力を持っている者に向けられているか。
違うと思う。
弱い者同士で,優劣をはっきりさせたいがためにその思考がありはしないか。
揚げ足取り,些細なミスにつけこみ,なんとか自分の優位を保ちたい…そこに話し合い,折り合い,すり合わせ,認め合いといった要素はあまり感じられない。
「半沢直樹」のドラマ設定として,それを復讐劇として仕上げたのは,力関係がはっきりしている昔からの演劇パターンだったからだ。
しかし,大方の人はその関係性をスルーして,自分の都合に従って相手を設定し,感情のままに攻撃したりする。
「倍返し」は、自己都合優先思考の敵対化表現を煽る言葉だ。
さあ「じぇじぇじぇ」です。
すでに4月には別の観点から取り上げて,書き散らしていた。
結論としては,語感のよさに目をつけた脚本家の勝利ですね。
ちょっと気にくわないのは,初期にあれほど「あんまり使っていない」としていた地元の方々が,人気とともに使い出したような印象があること。
ある意味では「Uターン方言」か。
まあ主人公のアキも似たようなものだったが。
驚き,感動?の言葉にイチャモンはつけにくい。
ただ,こうは言える。
はじめ「じぇ」という単発の表現が,繰り返しによる強調で「じぇじぇじぇ」となり,激しく何度も繰り返される場面があったことを振り返れば,ひどく単純化された,経済的な台詞で,このドラマが支えられたことになる。
それがドラマにおける「キメ台詞」ですよ,と言われればもっともだが,ちょっと寂しい気がする。
名作『あまちゃん』に見入った人たちは「じぇじぇじぇ」という言葉を思い出すたび,何に驚き,何に感動したのかをきちんとふりかえられるのか。
結局,何を言いたいのか…あれれぇ,やはりイチャモンは無理でした。
「あらゆる『不在』が『存在』に変わる『あまちゃん』の世界」と評したのは,藤川大祐さんだった。
その説に重ねれば,「じぇじぇじぇ」は自分の「存在」を証明できる言葉だったはずなのに,あまりの流行によって外に向けられる表現として不幸を背負った。
これは基本的に復讐の言葉だ。
前提の叫びとして「やられたら,やり返す」がある。
旧約聖書にある「目には目を歯には歯を」ということか。
新約にあるイエスの「左の頬を打たれたら、右の頬も差し出しなさい」と対極にある。
さらに言えば,孔子の「己の欲せざるところ、人に施す勿れ」という教えに反する。
聖人たちの教えに逆らう論理がもてはやされる世の中の空気とは,いったいどんなものか。
弱い者が虐げられているからその代弁だ,という考えもあろう。
しかし使う人間のその矛先は,強く権力を持っている者に向けられているか。
違うと思う。
弱い者同士で,優劣をはっきりさせたいがためにその思考がありはしないか。
揚げ足取り,些細なミスにつけこみ,なんとか自分の優位を保ちたい…そこに話し合い,折り合い,すり合わせ,認め合いといった要素はあまり感じられない。
「半沢直樹」のドラマ設定として,それを復讐劇として仕上げたのは,力関係がはっきりしている昔からの演劇パターンだったからだ。
しかし,大方の人はその関係性をスルーして,自分の都合に従って相手を設定し,感情のままに攻撃したりする。
「倍返し」は、自己都合優先思考の敵対化表現を煽る言葉だ。
さあ「じぇじぇじぇ」です。
すでに4月には別の観点から取り上げて,書き散らしていた。
結論としては,語感のよさに目をつけた脚本家の勝利ですね。
ちょっと気にくわないのは,初期にあれほど「あんまり使っていない」としていた地元の方々が,人気とともに使い出したような印象があること。
ある意味では「Uターン方言」か。
まあ主人公のアキも似たようなものだったが。
驚き,感動?の言葉にイチャモンはつけにくい。
ただ,こうは言える。
はじめ「じぇ」という単発の表現が,繰り返しによる強調で「じぇじぇじぇ」となり,激しく何度も繰り返される場面があったことを振り返れば,ひどく単純化された,経済的な台詞で,このドラマが支えられたことになる。
それがドラマにおける「キメ台詞」ですよ,と言われればもっともだが,ちょっと寂しい気がする。
名作『あまちゃん』に見入った人たちは「じぇじぇじぇ」という言葉を思い出すたび,何に驚き,何に感動したのかをきちんとふりかえられるのか。
結局,何を言いたいのか…あれれぇ,やはりイチャモンは無理でした。
「あらゆる『不在』が『存在』に変わる『あまちゃん』の世界」と評したのは,藤川大祐さんだった。
その説に重ねれば,「じぇじぇじぇ」は自分の「存在」を証明できる言葉だったはずなのに,あまりの流行によって外に向けられる表現として不幸を背負った。