すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

おじさん,20代に導かれる

2014年07月01日 | 読書
 「2014読了」64冊目 ★★★

 『だから日本はズレている』(古市憲寿  新潮新書)


 テレビの討論番組で著者を観たときの、妙に冷静な語り口の印象が残っている。
 前著『絶望の国の幸福な若者たち』は読んでいないが、これはいわば続編なのだと思う。

 テレビでの印象そのままに淡々とこの国の現実と分析を述べていて、ではどうすればいいかという押しが少し弱い気がしたので、不満を持ちかけた。

 しかし、著者はしっかり語っているのだった。

 向けられている鉾先が「おじさん」であり、そのおじさんである自分には伝わりにくい部分を伝えようとしているのだった。
 特定の年齢層を指しているわけではないが、今まで社会を動かしてきたおじさん方に対して端的に言い放っている一部は次の通りである。
 (いくつかの章のタイトルである)

 「リーダー」なんていらない
 「ソーシャル」に期待しすぎるな
 「若者」に社会は変えられない



 強いリーダーの出現を待ちつつ、ソーシャルメディアを十分活用しなければと頑張り、結局は若者に大きな期待をかけている「おじさん」とは、どんな人間像か。
 著者は、あとがきにこう書いている。

 「おじさん」とは、いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人のことである。


 ある程度、その自覚は持っているつもりだ。
 そして、現状のこの国の「ズレ」についても多少の認識は持っていると自負している。

 しかし、先に三つ挙げたことに対する認識は、やはり指摘されれば、ハイソノトオリと認めざるを得ない。(ソレガナニカと居直るタフさはない)

 著者は言う。

 「おじさん」は「今ここにないもの」を過剰に期待してしまい、「今ここにあるもの」に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているのだ


 教育という仕事に従事している立場にあっては、より深刻にこの発言を受け止めるべきではないかと思う。
 「スピード化」の流れが加速し、工業生産的な営みがより強まっている気がする。
 完成品的なイメージばかりが先行して、「今ここにあるもの」への視線が弱まっている。
 展望を持たないのではなく、誰かの立てた未来像を鵜呑みすることなく、今ここを大事にする実践を積み重ねていくべきではないか。

 この国の「ズレ」修正に役立つほどでなくとも、まず自分の身の回りからという視点を強くする…そんなヒントが終章間近にあふれている。

 ダウンシフタ―ズ(減速生活者)、コンサマトリー(自己充足的)、そしてOne kitchen …遠くない将来、そちらへ向かいそうな予感はする。
 この方向に、決意は似合わないがきっと選択し続けていくだろう。