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桜と絵本と豆乳と

ありがたい教えの本を少しずつ

2014年07月19日 | 読書
 こういう文体に憧れてしまう。

 『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)を少しずつ読み始めている。

 そして、冒頭に書いたとおりの気持ちを持つ。

 しかし、その一文は検討されなければならない。
 それが、私にとって、この本を読んだ価値と言えるからである。


 こういう文体に憧れてしまう。

 何気なく書いてしまったこの文章に、自分の不足な部分がぎっしりと詰まっている。

 「こういう」とは、何を示しているか。少なくとも引用があるべきであり、「宇佐美寛」という名前から文章をイメージできる読み手を期待したり、漠然とした印象だけでよいと端折ったりする心理があるのではないか。

 「文体」とは、表現上の特色を指しているのか。また文章の様式のことをいっているのか。定かではない。

 「憧れる」ではなく「憧れてしまう」と書いた理由があるのか。
 それは「憧れられないのに」とか「憧れてはいけないのに」、もしくは「憧れても仕方がないのに」というニュアンスを含んでいる。
 しかし、なぜそんな心理を湧いたことを含めたのだろう。


 と、「作文教育」らしく、というか宇佐美先生の真似のように書いてみました。

 しかし、全然近づけない気がしています。
 だから「憧れ」と書いたのでしょう。

 そういえば、以前「痛い」と思った記憶のある、次の文章がまた書かれてありました。

 ガはきたない。(チョウはきれい。)ガを追い出そう。

 接続助詞としての「が」を連発する癖のある自分は、ずきっとくる教えでした。

 しかし、しょっちゅうその癖が出ているところを見ると、肝心なことをぼやけさせたいという気弱な心理が透けてみえるようです。

 「蛾の色彩がぼんやりして、さえない」という「ありがたい教え」を、まずはこの本から頂きました。