『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)を少しずつ読み進めていくシリーズ2回目。
P41
短い一文ずつを少しずつずらしながら書く,そのように書くことによって思考する。このような思考の技術は,文字の手書きによって担われている。
この「ありがたい教え」もキーボードで打っている自分が情けない。
しかし,それはそれとして,実に味わいのある教えではないか。出会いは初めてでない感覚もある。似たような文章はどこかで読んでいる。
そしてふっと思い出したのは,かなり以前に「書くことは…」と題して綴った小文だった。その書き出しである。
手書きで学級通信を盛んに書いていた頃,大先輩のS先生に「毎日みだいに書いでいるど,あんまり書ぐごどなくとも,ペンを持って一行書き出せば,途中で少しおがしぐなっただて,最後までなんとかたどりつくもんだ」と言われ,頷いた記憶がある。
宇佐美理論の真似事のような時間を持てていた時もあったのだなあと素直に感動する。
キーボード執筆もそういう面が皆無とは言えないが,手書きとの感覚の違いは明らかだろう。
「今日は…」と白い原稿枠に向かって,子どもや教室の様子を書きこんでいく時に,思考していた自分の感覚はもはや思い出せない域にある。
そして,その文章(2001年のものだ)には,「ワープロ画面が目の前にないと,書くことさえ思い浮かばない自分に唖然としたことがあった」とも記してある。
文明の利器に浸食された我が身体か…責任は自分ですが。
完全に手書きへ戻ることなどあり得ないが,どこかで枠を設けないと,このまま思考の劣化が進みそうだ。
宇佐美先生が紹介している二冊の本『視写の教育~からだに読み書きさせる』『縦に書け!』は,幸いなことに持っているし,この休みに再読してみようと心に決めた。
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短い一文ずつを少しずつずらしながら書く,そのように書くことによって思考する。このような思考の技術は,文字の手書きによって担われている。
この「ありがたい教え」もキーボードで打っている自分が情けない。
しかし,それはそれとして,実に味わいのある教えではないか。出会いは初めてでない感覚もある。似たような文章はどこかで読んでいる。
そしてふっと思い出したのは,かなり以前に「書くことは…」と題して綴った小文だった。その書き出しである。
手書きで学級通信を盛んに書いていた頃,大先輩のS先生に「毎日みだいに書いでいるど,あんまり書ぐごどなくとも,ペンを持って一行書き出せば,途中で少しおがしぐなっただて,最後までなんとかたどりつくもんだ」と言われ,頷いた記憶がある。
宇佐美理論の真似事のような時間を持てていた時もあったのだなあと素直に感動する。
キーボード執筆もそういう面が皆無とは言えないが,手書きとの感覚の違いは明らかだろう。
「今日は…」と白い原稿枠に向かって,子どもや教室の様子を書きこんでいく時に,思考していた自分の感覚はもはや思い出せない域にある。
そして,その文章(2001年のものだ)には,「ワープロ画面が目の前にないと,書くことさえ思い浮かばない自分に唖然としたことがあった」とも記してある。
文明の利器に浸食された我が身体か…責任は自分ですが。
完全に手書きへ戻ることなどあり得ないが,どこかで枠を設けないと,このまま思考の劣化が進みそうだ。
宇佐美先生が紹介している二冊の本『視写の教育~からだに読み書きさせる』『縦に書け!』は,幸いなことに持っているし,この休みに再読してみようと心に決めた。