すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉のない時間を巡る

2014年07月25日 | 雑記帳
 姪が子どもを授かり,先週無事出産した。この県にあって,いやこの国にあってまさに「子は宝」。本当に嬉しいことだ。生まれて間もない子を抱かせてもらう機会があった。いくら見続けても飽きないという心理は,いったい何だろうとつくづく思う。ほんの少しの動きに宿る,安らぎ感のような存在が眩しいのだ。


 作家の小池昌代がこんな文章を書いている。「皮膚一枚を通して,言葉など介在させることなく,確かに何かが行き来する。あの流れ,あの物質?何と呼ぼう。いや,言葉なんかで呼ばなくていい。」ことさらに言葉にしようとして,駄目になっている自分を感じたりする。そこに浸っていい時間をもっともっと多く。


 夏休み前の学校報に,建築家安藤忠雄の文章を引用し「子どもが子どもをする」機会を見守ってほしいといった旨を書いた。規制だらけの世の中で,子どもがなんとなく窒息しそうな気配がある。それでもプールであげる歓声や,遊具をめぐって小競り合いしている声はまだ聞こえる。こういう時間にも言葉は消える。


 児童の保護者が事故で亡くなり,職場代表として葬儀に参列した。働き盛りの逝去は実に無念だ。ここにも弔辞で言葉を失った友人の姿があった。届けたい人にはけして届かない声は,意味を寄せ付けない。言葉を重ねて高まってくるのは,声を発する者自身の悲しみであり,辛さだ。慰められるのもまた自分である。