先週の新聞にあった小さな囲み記事が、妙に気になった。
ある会議で、佐々木毅氏が述べた「品位ある社会」という言葉に対して、緒方貞子氏が「品位」に関して批判的な意見を述べたというような内容だった。
ネットで検索してみると、「アカデメイア・フォーラム」というところに行き着いた。
記事に取り上げらけれた部分の詳細はないが、次のような概要が載っていた。
中でも先出の総論でキーワードとなっていた「品位」については特に多く話題にのぼっていて、緒方貞子共同塾頭からは「(品位という言葉の)定義が曖昧。自分で決めるものなのか、他者から決められるものなのかはっきりしないのでは」といった辛辣な指摘も。
品位の定義、自分で決めるか、他者から決められるのか…これはこの言葉に限った問いではないかもしれない。
とりあえず、辞書を引いてみよう。
ひんい【品位】
広辞苑①人に自然にそなわっている人格的価値。ひん。品格。「-を欠く」「-の無い人」
(②以下略)
明鏡①その人や物にそなわっている品のよさ。品格。「-を保つ」「-を落とす」
(②以下略)
これを読む限りでは、他者からの評価的な意味合いが大きいと言える。しかし文例を考えると「-を保つ」などから自分で言って悪いわけでもない気がする。
国語大辞典は、少し面白いことを書いている。
①品格と地位。また、人や事物にそなわる気高さやりっぱさ、品のよさ。
「地位」だとすれば、それは大方他者からの評価である。
ただ特殊ではあるが生まれながらの地位にある人も存在する。その部分を拡大解釈し「持って生れた」的な言い方もなかにはあるだろう。
さて、緒方氏の指摘を、当事者意識をもって考えてみる。
人は「品位ある自分になろう」とは、めったに口にしないだろう。
ただ、心のなかではそうしたイメージを描いていることはある。
つまり、その時に大切なことは具体性なのだと考える。
品位があるとは、どんな行動や仕草を指しているものなのか。
これは「社会」という言葉を形容するときには、かなり大きな問題だ。
まず「品位」に関しての合意がなされているのか、という点である。
従って、どのような基準を持って近づこうとするのか、根深い問題が横たわる。
そう考えると「品位ある社会」とは、肌触りのいい言葉ではあるけれど、世界に発信するとすれば、非常に内実のわかりにくい表現ではないかと考える。
そんなことを自分ごときが言うのも変だが、これはどんなレベルでも在り得るのかもしれない。
品位の物差しは、自らを測りにくい。
「品位ある学校」と言ってみたい気もする。しかし安易に言語化できない表現だろう。
たかだか数年程度で目指せるものではなく、そこで長く培われたことによって、周囲の方々が口にするにふさわしい形容ではないか。
ある会議で、佐々木毅氏が述べた「品位ある社会」という言葉に対して、緒方貞子氏が「品位」に関して批判的な意見を述べたというような内容だった。
ネットで検索してみると、「アカデメイア・フォーラム」というところに行き着いた。
記事に取り上げらけれた部分の詳細はないが、次のような概要が載っていた。
中でも先出の総論でキーワードとなっていた「品位」については特に多く話題にのぼっていて、緒方貞子共同塾頭からは「(品位という言葉の)定義が曖昧。自分で決めるものなのか、他者から決められるものなのかはっきりしないのでは」といった辛辣な指摘も。
品位の定義、自分で決めるか、他者から決められるのか…これはこの言葉に限った問いではないかもしれない。
とりあえず、辞書を引いてみよう。
ひんい【品位】
広辞苑①人に自然にそなわっている人格的価値。ひん。品格。「-を欠く」「-の無い人」
(②以下略)
明鏡①その人や物にそなわっている品のよさ。品格。「-を保つ」「-を落とす」
(②以下略)
これを読む限りでは、他者からの評価的な意味合いが大きいと言える。しかし文例を考えると「-を保つ」などから自分で言って悪いわけでもない気がする。
国語大辞典は、少し面白いことを書いている。
①品格と地位。また、人や事物にそなわる気高さやりっぱさ、品のよさ。
「地位」だとすれば、それは大方他者からの評価である。
ただ特殊ではあるが生まれながらの地位にある人も存在する。その部分を拡大解釈し「持って生れた」的な言い方もなかにはあるだろう。
さて、緒方氏の指摘を、当事者意識をもって考えてみる。
人は「品位ある自分になろう」とは、めったに口にしないだろう。
ただ、心のなかではそうしたイメージを描いていることはある。
つまり、その時に大切なことは具体性なのだと考える。
品位があるとは、どんな行動や仕草を指しているものなのか。
これは「社会」という言葉を形容するときには、かなり大きな問題だ。
まず「品位」に関しての合意がなされているのか、という点である。
従って、どのような基準を持って近づこうとするのか、根深い問題が横たわる。
そう考えると「品位ある社会」とは、肌触りのいい言葉ではあるけれど、世界に発信するとすれば、非常に内実のわかりにくい表現ではないかと考える。
そんなことを自分ごときが言うのも変だが、これはどんなレベルでも在り得るのかもしれない。
品位の物差しは、自らを測りにくい。
「品位ある学校」と言ってみたい気もする。しかし安易に言語化できない表現だろう。
たかだか数年程度で目指せるものではなく、そこで長く培われたことによって、周囲の方々が口にするにふさわしい形容ではないか。