若い頃お世話になった方が、先週相次いで逝去なされた。
M先生とは直接同職することはなかったが、無くなった父親と同期ということで、いつも声をかけていただいた。
理科が専門で特に地域の自然保護に関しては、著名であった。
教員を退職されてからも自然関係のボランティアをなさっていた。
昔務めていた学校の、校門近くにあった巨大な石(岩と呼んだ方がいいか)は、F先生が中心になって鳥海山から運んできたというエピソードを聞いたことがある。
アウトドア派の先駆けのような先生であったと、懐かしく思い出す。
私が若い頃買った車で履いていたスパイクタイヤのお古を、親類経由でM先生が履いているということを聞き、そのアクティブさに驚かされたこともある。
T先生とは、今務めている学校で20年前に2年間、机を並べた。
苦労人という形容がぴったりする先生で、当時は教頭として本当に職員への気遣いをなされていた。
私が主任としてぐいぐいタイプの頃だったので、助けられた職員は多いはずだ。
理不尽なことについては明確に主張なさる方であり、幾度か自分もたしなめられた記憶がある。
専門である社会科を通じて学んできたことは、まさに地域の歴史と民主主義そのものではなかったか。
酒はあまり強くなかったようだが、自分が酒席で初めて記憶を失った時に抱えられたのが、あの細身のI先生だったことを、葬儀の席でふと思い出した。
お二人は80代後半と70代後半であった。
教師としての全部また大半を「昭和」で過ごした。
現役世代とは明らかに違う要素があると思う。
それが何かは、明確に言語化はできないが、時代と対峙してきたというイメージが強く浮かんでくる。
昭和の熱さ、苦しさ、疾走感のある空気の中で立ち上がってくるような姿だ。
それは自らを振り返ったときの希薄さと、まさに対照的だ。
昭和の教師たちがぽつりぽつりと去っていく。
合掌。
M先生とは直接同職することはなかったが、無くなった父親と同期ということで、いつも声をかけていただいた。
理科が専門で特に地域の自然保護に関しては、著名であった。
教員を退職されてからも自然関係のボランティアをなさっていた。
昔務めていた学校の、校門近くにあった巨大な石(岩と呼んだ方がいいか)は、F先生が中心になって鳥海山から運んできたというエピソードを聞いたことがある。
アウトドア派の先駆けのような先生であったと、懐かしく思い出す。
私が若い頃買った車で履いていたスパイクタイヤのお古を、親類経由でM先生が履いているということを聞き、そのアクティブさに驚かされたこともある。
T先生とは、今務めている学校で20年前に2年間、机を並べた。
苦労人という形容がぴったりする先生で、当時は教頭として本当に職員への気遣いをなされていた。
私が主任としてぐいぐいタイプの頃だったので、助けられた職員は多いはずだ。
理不尽なことについては明確に主張なさる方であり、幾度か自分もたしなめられた記憶がある。
専門である社会科を通じて学んできたことは、まさに地域の歴史と民主主義そのものではなかったか。
酒はあまり強くなかったようだが、自分が酒席で初めて記憶を失った時に抱えられたのが、あの細身のI先生だったことを、葬儀の席でふと思い出した。
お二人は80代後半と70代後半であった。
教師としての全部また大半を「昭和」で過ごした。
現役世代とは明らかに違う要素があると思う。
それが何かは、明確に言語化はできないが、時代と対峙してきたというイメージが強く浮かんでくる。
昭和の熱さ、苦しさ、疾走感のある空気の中で立ち上がってくるような姿だ。
それは自らを振り返ったときの希薄さと、まさに対照的だ。
昭和の教師たちがぽつりぽつりと去っていく。
合掌。