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『下流志向』を再読する

2015年03月22日 | 読書
 【2015読了】30冊目 ★★★
 『下流志向』(内田 樹 講談社文庫)

 中古文庫本を買って再読してみた。
 書棚にあるはずの単行本は2007年発刊なので、およそ9年ぶり。
 その時の読み取りとしては3割ほどだったような気がする。
 読み直して、その倍ぐらいにはなっているかなという感覚である。
 これは別に能力が上がったのではなく、この本で触れられている事象がより身近になったということではなかろうか。
 以前は、わずかな感想しか残していない。

 今読むと、傍観的、楽観的だった自分が浮かび上がる。
 それゆえ、ろくな仕事も出来なかったということか。

 今回は第一章から繰り返し述べられる「自己決定」に関する点が、とてもよく響いてくる。それはきっと自分が知らず知らずのうちに染まっていた思考が指摘されたからだろう。
 読み直している途中にふと気づいて、予定していた修了式の挨拶の一部を変えることができたのは、わずかに救いか。

 教育の中に「選択」というキーワードが入ってきて、さらに「めあて」掲示の強調が浸透し始めてから、もうかなりの年月が経つ。
 改めて次の言葉に立ち止まり、普通になっている感覚を、どのレベルで疑ってみるか。これこそをまず自分に課してみたい。

 自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。


 本来、学びがそのように構造化されているとすれば、今私達が進めている授業のあり方には疑わなくてはいけないことが、たくさんある。
 それは、自らの仕事や研修についても言えるはずで、その部分で学びのプロセスを実感できていなければ、かなり困難になると言っていいかもしれない。
 そう考えると、学校を覆う実情は厳しい。

 もう一つ、この本にある内容で、教師の資質について、大きく頷けることがあった。

 親の仕事というのは、本来子どもの発信するノイズをシグナルに変換することだと思うんです。


 ノイズをシグナルに…これはまさに教師にもぴったり当てはまらないか。
 社会的にはノイズに振り分けられるものも、対象をしっかりとらえている者が聴けば、それはシグナルになる。
 伝えることに関して「わかりやすさ」を求めることは当たり前だけれど、そのルートだけ求めていてはひどく一面的であろう。
 「わかること」の領域を広げていくために、教師に必要なことを、次の比喩は明確に示している。

 「可聴音域を広げる」
 「チューニング能力を高める」