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彼女の命日

2015年03月10日 | 雑記帳
 今日3月10日は、かの童謡詩人金子みすゞの命日である。

 90年だったと思うが、全国へき地教育研究会大会があり山口県に行ったとき、売り出し?中の「金子みすゞ」に出合ったことがあった。

 もちろんその「出合い」とは当人ではなく、探り当てたと言っていいだろう矢崎節夫氏の講演を聴いたことだ。

 その数年後、教科書に掲載されることになる「わたしと小鳥とすずと」が示した見方や考え方は、当時の社会が求めていたことに合致していたのかもしれない。

 流行りもの好きの私は、山口から帰ったらすぐその詩を教材にしてPTA授業参観で取り上げたりもした。我ながら単純。
 ただ、いわゆる「個性化」という方向へまっしぐらに向かったつもりはない。本当に大事なことは何か、何を根本として身につけさせるべきか、将来的にどう結びつくのか…そんなことを一貫して考えてきたようにおもう。

 このブログにも2005年に、上條晴夫氏の言葉を取り上げて、振り返ったりしている。


 さて、それはともかく、金子みすゞの作品そのものには、やはり強い印象を持った。
 これが童謡なのか、という感覚だった。

 「わたしと小鳥とすずと」が有名になり、様々な作品が知られるようになったことで、一つのブームを作りだしたと思う。
 それはそれで悪いことではない。
 彼女の限られた人生の中で残された作品はけして多くはない。
 しかしブームと関わりなく「金子みすゞ」に共感できるという読者は、一定数は必ず存在すると思う。

 小さいもの、弱いものへの眼差し。

 見えていることだけにしばられず、見えないものをさぐり続けようとする意志


 こう書くと、昨今の世相やこの国の社会情勢で失われつつあることを見事なまでに指摘しているように感ずる。

 「大漁」「星とたんぽぽ」…好きな詩はいくつかあるが、この詩にある感覚は時々思い出すようにしているという意味で、マイベストはこれだろうか。


   つもった雪 

 上の雪
 さむかろな。
 つめたい月がさしていて。
 
 下の雪
 重かろな。
 何百人ものせていて。

 中の雪
 さみしかろな。
 空も地面(じべた)もみえないで。



 合掌。