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鬼手も仏心も

2015年03月30日 | 雑記帳
 【鬼手仏心】(きしゅぶっしん)
 見た目は情け容赦がないようだが、実は相手のためを思う意向に発すること。外科医の、身体を切り開く残酷な手術と、それによって患者を救おうとする心のことなどにいう。
(日本国語大辞典)


 医師の書く連載で知った言葉である。
 外科医は使う道具を想うとまさにその通りなのかもしれない。

 では他の仕事ではどうだろう。
 表面上の厳しさと裏腹に慈愛に満ちた心の持ち主は、どの世界にもいるかもしれない。

 ただ時代は「鬼手」を求めなくなっている。
 まして「人」相手の仕事であれば、競技スポーツなどは別にして、激しさ自体が萎んでいるような気がする。

 「鬼手」と直接結びつけるのは危険かもしれないが、本来人間の持つ攻撃性は生身の相手が必要なわけで、それらが適度に発揮され、昇華されないと、突発的な危険は高まるのではないか。

 また「鬼手」も「仏心」も、きわめて主観的なことなのかなと考えがよぎる。
 イスラム国も、ドイツ旅客機の件であれ、個の中では「仏心」に近い感覚に満たされていたのかもしれない(これはなんでも言い過ぎかと思いつつ)、「鬼手」はそれに支配された手段だ。
 洗脳であれ病であれ、破壊的な出来事はそう映る一面を持ち合わせている。


 だんだんと大言壮語になりそうなので、日常に引きもどす。

 もし自分に「仏心」があるとするならば、「鬼手」の鬼の顔をどんなふうに見せるか…そういうことです。