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せめて椅子の背に

2017年10月17日 | 読書
 「茨城」は「イバラギではなくイバラキ」とよく言われる。この詩人の苗字である「茨木」は「イバラキではなくイバラギ」なのだ。と、どうでもいいこと(しかし当事者にとっては大切なことかもしれない)を思ってしまう。なんと言っても題名「倚りかからず」がいい。名詩「自分の感受性くらい」を連想させる。



2017読了103
 『倚りかからず』(茨木のり子  ちくま文庫)


 「」という漢字をふと眺めてしまう。「人偏」に「奇」である。奇は「めずらしい・あやしい」が一般的な意味であり、人の体が屈曲して、かたよっていることを意味している(大漢和)。人がそういう状態になって「ものによりかかる・もたれる」ことを「倚」と表したようだ。つまり、直立せず何かにもたれることだ。


 当然、物理的な姿だけではなく、精神的な在り様も示している訳で、詩人に「倚りかからず」と窘められれば、びくっとするのは私だけではないだろう。もちろん、ずっと倚りかからず生き抜ける人は稀だから、せめて「倚りかかる対象」が信じられるもの、まともなものを選びたい、と少しひ弱だが現実的なことを思う。


 表題作で「倚りかかりたくない」と著されたのは次の四つ。「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」「いかなる権威」…全て私たちが日常に向き合うこと。つまり、この詩は既に出来上がっている物事に疑問を持たずに身を任せない、強制し服従させようとする力に屈しないという宣言。直立する姿。


 では具体的にどうするか。「あのひとの棲む国」と題された作品の冒頭三行が、その心構えを語っているのではないか。「雪崩のような報道も ありきたりの統計も/鵜呑みにはしない/じぶんなりの調整が可能である」…せめて、椅子の背に倚りかかって、「じぶん」をしっかり見つめ、そこから「調整」を始めてみよう。