すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ぼのぼの」と表現者たち

2017年10月18日 | 読書
 『ぼのぼの』という漫画は知らなかった。書店の「新書」コーナーに『泣きたい日のぼのぼの』という編集版があり、手にとった。動物が登場人物の四コマ漫画、シュールというか言葉のずらし方が独特というか、楽しくはないが浸りたい気分にもさせられた。巻末に作者の対談があり、そこから「」を拾ってみた。



Volume81

 「アートというか芸術ってのは私に言わせれば、できるだけ言葉から遠くに行った人が勝ちだと思うんですよ。ただ言葉から遠くにずうっと行っちゃうと、誰も分かんなくなっちゃいます。だからみんなに分かったもらった上で、言葉からこんなに遠くまで来たんだということをやれればいいですけど、やってる本人しか分からない世界かもしれませんね」(いがらしみきお)

 「言葉から遠くに」という感覚はよく分かる。
 「言葉にできない」ことを、どのレベルで意図的に表現できるかということだろうか。

 よく美術作品に『無題』という題があるが、それはいったいどの段階の無題なんだと、凡人はいつも思う。
 「感じればいいんですよ」としたり顔で言う人はいるけれど…。
 そんな気持ちでいても、あうべき作品に出合えるものなのか。


Volume82

 「たとえば曲を作った後、誰かがそれを聴いた時点でもうその人の音楽だと思うのです。誰かが曲を聴いて泣いたとして、その涙に自分が関係しているという気はしないですね。泣いたり、癒されたりっていうのは、誰かのコントロール外にあってこそ面白いと思います。」(やくしまるえつこ)

 対談相手のミュージシャンの言葉。この突き放しは半端ではない。
 ここに見える所有感の無さは、きっと自分の表現をフローとして体現していくタイプの人だ。

 音楽は聴いたことがないけれど、ワタシャ無理かもしれん。

 Youtubeを聴いたがやはり無理なよう。

 「コントロール」が、この人が世の様々な事象に向き合うときの視点になっているのかな。