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自裁した人は問いかける

2018年02月11日 | 雑記帳


 秋田県の自殺率が全国一高く、行政もそれに対し真摯に向き合っていることを承知している。目標数値を挙げざるを得ない事情は理解できるが、正直少し割り切れなさは残る。先月「自裁」した保守派の論客西部邁について、佐伯啓思がその意味を問うた「いかに最期を迎えるか 自分なりの『死の哲学』はが重い。


 本県は高齢者の率が際立っている。様々な分析がされる。言い方は変だが、結局佐伯の文章にある「老→病→死」に到る条件が揃っているからだろう。防止は物理的・精神的環境を整えるしかない。しかしそれでも自殺の決断の訳は、個々にしか分かり得ない。生きる者が理由を詳らかにしても、その人はもういない。


 先日読んだ『俺に似たひと』のなかの一節である。「人間以外のあらゆる生きものは、自分が死ぬ存在であることなど、はなから考慮しない存在なのだ。人間だけが『死を思う』ことができる。だから人間だけが死者を弔うことができるのだ」。そして現状では、自分の死はなかなか自由にはならないと誰もが思っている。


 書き出すきっかけは「自裁」という言葉。不勉強で知らなかった。しかし思い浮かべると自殺を意味する熟語は結構あるものだ。「自死」「自害」「自決」「自尽」、少し調べると「自刃」「自刎」などという語もある。「裁」や「決」という字を使うのは歴史的背景を抱えることだが、いずれ判断は自らに委ねられる意味だ。


 もちろん自殺礼賛ではない。また自分なりの「死生観」も確固たるものはない。ただ人間界で「生命尊重」がその価値を持つのは、「自由追求」の保障が存在するからだ。そうであれば「裁ちかた」を自ら選択する余地が残ることと矛盾しない。高齢化社会が進むなか、タブー視されるこの問いに目を逸らしてはいけない。