すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

目的と形式を往復しながら

2018年02月24日 | 教育ノート
 今週は月曜と金曜に集まりがあり、講話や講義、実践発表等を聴く機会があった。



 それぞれの内容については、会の趣旨にそったものであり、聴きごたえのある充実した中味だったと思う。刺激にもなった。
 しかし、残念ながら5つあったなかで、時間が守られたのはわずかに一つだけだった。数分伸びたのが一つ、あとは数十分であったり、予定時間の2倍強であったりした。

 こういう場が重なると、日本人(そんなに括っていいか)の言語技術はまだまだか、といらぬ心配がまた頭をもたげてくる。
 話し方や筋の工夫などは以前と比べればずいぶん進歩している。
 ただ「時間」を守る点はどうしても粗っぽくなってしまうようだ。

 やはり「意を尽くす」国民性なのだろうか。
 それ以上に「みんな自分を語りたい」のかもしれない、と聴きながら、ふと思った。
 それは集合した場においての音声表現だけでなく、様々な投稿などネット上の場での表現、もちろんここもその数多ある一つに過ぎないのだが、実に多種多様の姿を見せている。
 
 しかし自分がしている「表現の特性」を踏まえないと、他者に迷惑がかかったり、会だと全体の効率性に影響が出たりすることになる。
 その意味では「目的意識」の希薄さが一番大きいかもしれない。


 昨日の会では、発表後にワークショップと称して付箋を使った円卓作業も行われた。一応のゴールは示されて個々の動きはあったにしろ、結局そこでも時間配分の問題が決定的になった。

 研修とは、解や意義が個々の中に生まれ、咀嚼されたり発展されたりすることが最終的なねらいとも言えるが、そのためにその場で必要な活動は何かを捉え切れていないようだった。
 
 目的がわかっていて、形式を工夫しても、その二つを往復して絶えず位置確認をすることが大事だ。

 達成感のないまま無駄な筋肉ばかりつけるようでは、何かに利用されかねない。