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「感動より思考を」見取る

2018年06月08日 | 雑記帳
 2012年に『ゴーイングマイホーム』というTVドラマが放映される前に、へぇー是枝監督が作るんだと思った記憶があり、ドラマも欠かさず観たので、結構以前からシンパシーを抱いていたのだと思う。『誰も知らない』の印象が強かったのかもしれない。もはや巨匠と呼ぶにふさわしい勲章を得たが、結構強烈な人だ。


 久しぶりに「文藝別冊」を買った。昨年秋に出たもので『三度目の殺人』が公開された頃だ。ざあっと目を通したが、読み手としての知識がちょっと足りない。いや、それどころか最新作だけでなく、その前作も見ていないのだから…。こりゃきちんと見なければ。テレビの放映を待ってるようじゃ駄目だなと痛感する。


 「文藝別冊」に単行本未収録エッセイもあり興味深かった。メディアのあり方について「感動より思考を」と題して、「伝える側」としての当事者意識の欠如を批判する。「メディア従事者に今求められているのは、わかりやすい正義感ではなく、彼らの態度の中に自らを見ようとする姿勢なのだ」と本質をずばり突く。


 上の文章は99年当時のものだが、結局20年経ってもメディアの姿勢は益々堕落していく一方である。是枝監督が作品を通じて対峙してきた、世の中のリアルにある同時性、共通性はやはり訴求力が強い。二年前に武田砂鉄が聞き手となったインタビューでは、現状における「家族観」の中核的な考えが示されていた。


 現政権が「伝統的家族観」を打ち出していることに明確な異議を唱え、「余計なお世話だよ」と突っぱねる。ナショナリズムに頼り多様な場を提示できないことを「政治の貧困」と言い切る。そういう目のみで作品を捉えるのは危険でもあるが、「感動より思考を」は貫かれているはずで、敏感に見取ってこそ価値がある。