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暗黒時代を紐解けば・弐

2018年06月11日 | 雑記帳
 会誌27号の我が「三C」のクラス紹介は、その格調高い文章に恐れ入った。初めに、学級の紹介を「学校生活の枠の中で集約された共通性と特異な例外を除けば、さして取り上げるべきものが見当たらず…」と宣う。そして独特の文語調を駆使しながら、「紅一点の女子担任」学級の特徴をかなり鋭い視点で綴っている。


 担任の「時おり寸言心を刺す鋭い比喩を交えた叱訓」、それに対して生徒は「力んで投げたマリも緩急自在の壁に反動なし」と表すなど、今どきの十代では書けない才気を感ずる。当時の自虐的な雰囲気を思い出させてくれる「愚や愚やこの身奈何せむ」等なかなか使えない。そして今、このKは…行方知れずである。


 生徒会誌も巻頭は校長の文章である。海外視察日記があり15ページにわたっている27号の他は3ページが割り当てられている。26号に読書がテーマで「目の業はなされた。いまや心の業をなせ。」と結ばれている。カッコで括られているので引用かと思ったが、検索では見当たらない。「目の業」という言葉さえ無い。


 「目の業」「心の業」…個性的な表現だと思った。つまり本を読むだけでなく、それを「消化」し、「吐き出す」ことを重視せよ、という比喩であろう。「」とは心で行うものだが、「やるべきこと」と強く位置づける意味合いもあるのか。高校時代まともに読んだのは筒井康隆ぐらいだから、我が心の業もそれなりか。


 さて、紐解いても暗黒時代に変わりないと思っていたが、一昨日の小宴でお会いした我が師匠が、「同期会出席者の幸せ」の一つに「語りたい思い出があるから」と仰った。なるほどと頷く。自分に全くそれがないのなら振り向きもしないだろう。暗黒の中にあった煌きは、案外多いのかもしれない。今「業」を働かせよ。