すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

コミュ力と称される窮屈さ

2018年06月26日 | 読書
 もう一読。

2018読了63
 『日本の気配』(武田砂鉄 晶文社)


 この本からもう一つ、どうしても書いておきたい文章がある。最終の第五章は「強いられるコミュニケーション」と題され、こんなふうに書き出されている。

 「今、最も警戒している言葉が、『コミュニケーション能力』である。」


 先頃、逝去なされた市毛勝雄先生は、かつて「女性との会話をスムーズに運べず、独身男性が増えている原因を国語教育の責任と捉える姿勢がほしい」といった意味のことを書いた。その時意表をつかれた感じを受けながら、妙に納得した。だから「コミュニケーション能力」の言葉に疑いを持ったことはなかった。


 しかし「コミュニケーション」の重要性は認めても、安易に「能力」を付して語ることが、どんな意味を持つのか疑問に思えてきた。著者はこう書く。「コミュニケーションなんてものは、そもそも自分と誰かの『能力』で測られるものなのだろうか。」能力がないから出来なかったと、全てが片付けられるわけではない。


 人とコミュニケーションがうまくとれない時に、それが自分や相手の能力不足だけによるものではないことを、私たちは知っている。理由の一つであってもほんの些細な割合ではないか。物理的であれ心理的であれ、原因は連鎖のごとくつながりあっているはずだ。一つの要素が変われば即座に解消ということもある。


 今は「コミュ力」と略されるほど一般化したそれを、教育や仕事の場でスキルアップしようとすることは悪くない。ただ、コミュニケーションを支えるにはいくつも要素があり、内実のないままに「能力」ばかり肥大して語られる世の中とはいったい何だろう。「コミュ力」と称された姿はずいぶん窮屈に見えてくる。