すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「無視する」教育技術

2005年10月17日 | 読書
いくつかの大学で物議をかもし出していますが、「無視する」という言い方がありますよね。「無視」ですよ。
このような技術は、今までの授業の中ではほとんど語られてこなかったのですね。個別対応という言い方はありますよ。でも、今はその子の相手をしない。今は相手をする時間ではない。というような言い方は、ほとんど見られなかったのです。

大森 修『横山浩之・大森修の医師と教師でつくる新しい学校』(明治図書)


特別支援教育の場では、しばしば出てくるこの「無視」は
明確に一つの技術として位置づけられているのだろうか。
しかし、私は教職経験の中で結構この「無視」という行動はとっていた。
それが意識的にできるようになったはいつ頃だったろうか。
自覚的に使ってこその教育技術だと思う。

教育を巡る論議の前提

2005年10月16日 | 読書
教育を巡る論議には、「子どもを産み、育てることには問題が多く、辛く苦しいことも多いが、基本的には充実感があるものだ」という前提がない。つまり子どもを産み、育てることのメリットがまったくアナウンスされていない。それは結婚にしても同じことだ。
村上 龍『ダメな女』(光文社文庫)


問題のない人間などいない。
すべての子どもが問題を抱えている。
その多さや重さばかりに目を向けている私達…
その顔の暗さは、教育にとってマイナスでしかない。
明るい方向を求めるならば、言葉や表情を選ぼう。

百聞の重み

2005年10月15日 | 読書
「百聞があって、一見が生きる」とわたしは主張している。
たくさんの情報をもって、一見すると、その本質が見えることが多い。百聞が一見でひっくりかえることもある。必ず「プラスα」があるのは、百聞があるからである。

有田和正「授業研究21 2005.11」(明治図書)


教科によって差はあるが、単元を作っていく時にも
一時間の授業づくりにも、この言葉は生きるのではないか。
もっと巨視的にとらえれば
「百聞」こそが学校教育の役目ではないかとも考える。

子どもに命が伝わる瞬間

2005年10月14日 | 読書
ウサギを抱く前の子どもに「ウサギ、どう?」って聞くと、大抵の子どもが「かわいい」と答える。
でも、ウサギを抱いた後で、同じ質問をすると、「温かかった」とか「フニャフニャしてた」とか「コトコトいってた」という面白い答えが返ってきます。
なかには、ウサギを両手で抱え、頭を下げて、全身で包み込んでいる子どももいます。そうした瞬間に、私は、子どもに命が伝わったのだなと感じます。

小菅正夫「総合教育技術 2005.9」(小学館)


ありきたりの言葉や動作には
平凡な感情しか宿らないことが多いだろう。
具体的な言葉や、どうしようもなく反応する身体にこそ
命が伝わっていく回路が見える。
そうした瞬間を引き出す仕事の重さを感じる。

「ぬるい」世界に耐えられない者

2005年10月13日 | 読書
確かに学校には不条理な点が多々ありますが、それでも社会よりはずっと「ぬるい」世界です。そんな「ぬるい」世界に耐えられない者が、厳しい社会で生きていける訳がないのです。
森口朗『戦後教育で失われたもの』(新潮新書)


社会が理不尽や不条理を抱えることは宿命である。
では、学校は…。もちろんたくさんのものを抱えている。
それを「やさしさ」や「包容力」というカバーでくるんでいるような
そんな「ぬるい」世界なのである。
そこにも対応できない者が増えているからといって
学校はますますぬるくなっていけばいいというのか。

古稀の師匠が語ること…その2

2005年10月10日 | 雑記帳
四文字熟語をホワイトボードに書きつけ
読解力とは何かということについての具体的な話となった。

攀轅臥轍

「読めますか」という問いかけに対して
沈黙の会場である。
指名された参加者が(それ以外の参加者もおそらく)
電子辞書をひき始めたのだが、広辞苑に載っているレベルではないらしい。
そこからまず「漢字が読める」大切さについて話は進んだ。
字の読み方を知り、その意味を知る
そして、そこに込められた思い、考えを知る…
そういうステップを踏みながら
言葉の広がり、深まりを実感できている自分がそこにいた。

先生は、こう仰った。

読解力は、可視の世界から不可視の意味をさぐる力

読解力は、一つの追究力である。
「攀轅臥轍」は、その高まりを目指した教師にふさわしい。

古稀の師匠が語ること…その1

2005年10月09日 | 雑記帳
千葉で行われた野口芳宏先生の古稀記念集会に参加した。

先生を師と仰ぐたくさんの教員、出版関係者等が集い
もうここでしか見られないだろうという
メモリアルな記録物などを直に手にとって読むことができた。
そして、いつものように野口先生の「響くことば」に
間近に接することができた。

学ぼうとすれば、様々な価値がある。
学ぼうとしなければ、何ひとつ価値はない。


それは、自分を取り巻く万物やすべての事象にあてはまる。
価値がある、価値がないということは
要するに自分自身の心の向きでしかない。

どんなふうに心を向けていくか
その舵は自分しか握っていない。

自分の中にわかるものがある

2005年10月07日 | 読書
キミたちは学校で、外からいろいろ教えられるもんだと思っているでしょう?でもそうじゃない。わかるというのは、もともと自分の中にわかるものだけが、ループのくり返しによってでき上がっていて、それを外から説明されるから、わかるんだ。
養老孟司『バカなおとなにならない脳』(理論社)


授業で取り扱うほとんどの事柄は
取り立てて新しいことではなく、
多くの子どもたちの脳に予めあるものだと
強く認識して授業を組み立てようとすれば
展開や教師の働きかけはかなり大きく変わってくるのではないか。


目標は、教師の心の中にあるだけで

2005年10月05日 | 読書
目標は、教師の心の中にあるだけで、子どもには、ひとつの生活があるだけだと思うんです。個々の科目のないのが、一番いいことでしょう…。
大村はま『総合教育技術 2005.6』(小学館)


黒板にその時間の「めあて」が書かれたり
導入で目標を言わせたりする授業を、数多く見てきた。
自分もそれに近いことをしたこともある。
しかし、そのことによって教師の抱えている目標が
少しずつ薄まってひ弱いものになっていくような感覚を
いつも感じていた。

書くということは、現実をつくり出すこと

2005年10月04日 | 読書
書いてこそ初めてきょう起こったことは、私たちの意識に残り、事実となるのである。逆に言えば、書かれないことは、現に起こったことであっても、まだ事実ではない。書くということは、考えることとイコールであるだけではなく、現実をつくり出すことでもある。
樋口裕一『PRESIDENT 2005.10.17』(プレジデント社)


たくさん書いた者は、
たくさんの事実を作り出したことになる。
多くの現実を作り出すなかで
鍛えられる力は大きい。
書くことの積極的な意義はそこにもある。