すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「身体」を押さえるための教育

2006年08月12日 | 読書
 「森信三」という名を知ったのは、野口芳宏先生の著書が初めてだったように思う。
 その後、教育雑誌等でも何度か目にしていたが、まとまった形でその文章を読む機会がなかった。
 東京の書店で『森信三 教師のための一日一語』(寺田一清編・致知出版社)を見つけ、読みやすそうな構成に魅かれ手にとった。

 数多い著作集の中の、珠玉のことばを「一日半ページ」という形で365日分掲載されている。月日に意味はなく、一つの章立てのように使われているに過ぎない。特に十月以降の「人生語録」「教育語録」が興味深かった。
 森信三先生といえば「立腰教育」という程度の認識であったが、用語の知識としてではなく、なぜ「立腰」なのかを考えることこそ肝心なはずで、断片的ながらその核にふれたような気がした読書であった。

  近時、自然科学的文明の過度の発達により、われわれ人間の主体的な自己統一が乱されて、精神的疾患が激増しつつある。だが、これに対する最根本的対策は、結局、この「腰骨を立てる」一事の外ないわけである。

 おそらくは数十年も前に書かれたこの一文の、現状把握はまったく今日と同じである。事態は進行しつつある。大人も子どもも腰骨がぐらついていることは確かである。

 なぜ、立腰か。
 これらの語録から導き出されている。

 意識は瞬時に転変するものゆえ、真の持続性を養うには、どうしても身体から押さえてかかる外ない。
 
 体の中で一ばん動かぬ処は、結局下半身であり、しかも下半身の中心こそ実に腰骨に外ならない。

 腰骨を立てることで、自らの「主体性」そして「持続的実践力の根源たる意志力」を鍛錬しうるという。「腰」という言葉は、その字源や使われ方を見ても、体の根幹をなす部分であることは確かである。腰が一部ではなく中心であるというとらえ方、そうした身体づくりをすることで、精神を鍛えていくという考えは、古く見えるが実は最も着実な道ではないだろうか。
 腰がしっかり立つことによって、上半身も下半身も自由度がまし、外部へ表現する力が大きい。その内部の集中力がぐんぐん伝わってくるような印象がある。

 個人的にそうした立腰が姿として具現されていると見ているのは、例えばスポーツ界ではイチローであり、中田英寿である。
 二人とも激しい運動をしながらも妙にぶれない上半身が印象的である。
 そんな上半身が動かない典型的な姿を、数年前歌舞伎座で直接目にした。
 花道から入ってくる板東玉三郎の姿に釘付けになった。
 着物で足の動きがまったく見えないということもあるが、まるで機械に乗ったような動作でステージに入ってきたことが、今でもはっきり映像として焼きついている。

 一流のプレーヤーが見せるそれらの動きは、まさしく繰り返し積み重ねられた練習の成果であろう。
 「身体」を押さえるための教育…毎日の行動に何を取り入れていくべきか、繰り返し繰り返し身につくまでやらせるべきことは何か、もう一度吟味したいと思った。

教特法第21条を守りましょう?

2006年08月11日 | 教育ノート
今日は登校日。
夏休みも後半となるが、職員向けにちょっとしたお願い?を書いてみた。



 4日に青森県で行われたある研修会に参加しました。仰望する野口芳宏先生のお話を聴くためです。
 先生のお話の中に、教育公務員特例法21条が取り上げられました。「研修」に関した条文です。
 
  教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない

 私たちが使う「研修」ということばは、「研究+修養」という意味であることを示しています。
 野口先生は、次のように区分けなさいました。

 「研究は、子どもたちのために行うもの、つまり他者改善を目指している。それに対して修養は、自己改善を目指すものだ。」

 修養の語義は「精神を練磨し、優れた人格を形成するようにつとめること」とあり、なんとなく高い理想のように聞こえますが、教育における「感化」という要素の重大さを考えれば、なぜ「修養」という言葉が、法律の条文として明記されたかがわかるように思います。

 野口先生は
「教師は、研究ばかりしていて修養になかなか取り組まない。研究会という名はたくさんあっても、修養会というものは聞いたことがない」
ともおっしゃられていました。本当にそうですね。

 この夏、連日S先生が取り組んでおられる10年研の「選択研修」などは、いわば自己改善を目指した「修養」という要素ではないでしょうか。かなり刺激になったことでしょう。ただ、こうした官製のいわば強制力を伴うものに限らず、日常の中でもたくさんの修養の機会は見つけられるはずです。
 
 講座や講演会だけでなく、地域活動や旅行、読書なども入るでしょう。修養の成果はなかなか見えにくいものですが、ぜひ休み明けに、その経験や感想などを子どもに語ってあげたいものです。それによって自己認識も高まるし、何より定められた法律を守っているという一つの証し?になります。

 もちろん、そこまで大げさでなくてもいいのですが、子どもたちは、先生方自身の話は大好きです。
 「二学期最初のスピーチは、教師から」と心積もりをしていただければと思っています。

「対応技術」を高めるために・その2

2006年08月10日 | 読書
「○○さんが聞いていなかったから、もう一度言って」

 この言葉かけの素晴らしさを、私はこのように見る。

 まず、これは小林氏も書いているが「声の小さい子」に責任を感じさせるような言い方でないことである。
 次に、対象がその子だけでなく、聞いている子どもたちにも向けられていることである。注目したのは○○さんだけではないはずだ。
 さらにこの言葉は、発言は学級の誰かに聞かせる目的があることを示しているとも言える。向山氏の場合、その目的は「討論」への結びつきとして、意識されているのだろう。
 そして、何よりこの言葉かけは、学級の全ての子に視線を配っているからこそ、具体性を帯びるのである。

 さて、こう書いていると、子どもへの対応技術を高めるために必要なことも見えてくる。
 なんといっても「その子を認める」という姿勢である。
 力や性格などをまるごと認めることである。その子の悪いことを前面に出さず、いいところ、光るところを取り上げることである。
 次に「全体に対して波及させる」という意識である。
 対応技術といったとき、概して特別な相手や事象に関してとなるのだが、それらは決して特別なことでなく、誰も普通に行うべきことという認識を他の子どもが持てるように配慮していくことは、かなり重要だろう。学級における個別的な指導では欠かせないはずだ。
 「目的の意識化」に裏打ちされて言葉が発せられ、動きが形づくられる。常に持ち続けることはかなり高度と言える。身体化と言っていいかもしれない。指導者としてはもちろんだが、目的が子どもへ向けて何らかの言葉や動きとして表されることも大きい。願いは繰り返し語られることで叶う。
 最後にこれらを成り立たせるために、「子どもを絶えず見る、深く見ること」抜きにはできない。そのための方法(授業の中では、立ち位置と目線の使い方など)を何より身につけなければならない。

 この夏、いくつかの国語の模擬授業を見た。見たといっても全て生徒役としての参加なので、深い分析はできないが、教材文を生徒に一斉音読させるとき「指導者の目線」がどう動くか、(音読しながら)私は注目していた。あくまで私の見た範囲では、予想した目線の動き方はなかった。(もちろん、私が教材文に集中していたときに、そういうことがあったかもしれない)。
 従ってその時点で全体的な評価はされた方はいたが、個別的な対応技術を駆使した方は残念ながらいなかった。

 些細なことに技量が表われるというが、その意味で対応技術への注目は様々なことを教えてくれる。

「対応技術」を高めるために・その1

2006年08月09日 | 読書
 題名に惹かれて、二冊セットの本を買った。

 『子どもへの対応技術の解明・上巻』と『同・下巻』(明治図書)である。

 著者は、「授業の原理原則トークライン」編集長の小林幸雄氏。向山洋一氏の実践追究にかけては、TOSSの中でも屈指の一人であろう。

 小林氏の実践を中心に、ライブやDVD資料をもとにした向山実践の分析が内容である。
 個々の事例に参考になることは多かったが全体として構成に統一感がなく、「解明」という言葉にはそぐわないように感じた。どういう原理・原則があるか、記述の仕方を含めてもう少し明快さがほしい。
 しかし、少し不満を持ち読み進めたことで、かえって「対応技術とは何か」という本質的なことを考えたことも確かである。

 「対応」とは、「相手や状況に応じて事をすること」である。いうまでもなく児童生徒が対象となる。
 「対応」は、期間によって例えば「年間における対応」や「1時間における対応」というように、また関係によって「担任としての対応」や「初めて会う人としての対応」というように細分化されるだろう。対象が個別か全体かという区分もあるだろう。
 ここではそれらが混同されているのだが、メインと考えていいのは下記のことであるにちがいない。上巻の第一章の冒頭の記述である。

  授業中のさりげない教師の「助言、励まし、ねぎらい、評価」など、子どもへの対応

 つまり1時間の授業中の個別対応を主とみる設定である。この本を手にした私自身の関心もそこが大きい。
 そして「対応技術」となれば、それは前書きの部分にこんな書き方で結論づけられている。

 瞬間的に対応できる腕は、「選択能力」と言ってもよいだろう。
 バックボーンとして持っている種々の技術から最善のものを、瞬間的に選択できる技能、それが、プロのなせる対応技術である。

 
 対応技術は、種々の技術を持っていることが前提にあり、それを相手・状況に応じて選択し発揮するものといえよう。自らの対応技術を測るために、容易な考えも浮かんでくる。
 例えば、「小さい声で発表した子」に対してどんな言葉かけをするか。
 思いつくままに、その方法を挙げてみる。…ここでは数が多ければ多いほどいい。
 そしてその子がどんな性格、状態であるか、どの程度の能力なのか想定してみる。
 この子の場合はこれ、もしこうだったらこうといくつかに類型しておく…そうしたシュミレーションをすることは有益だと思う。
 
 しかし、肝心なことはまだまだある。

 「声が小さい子どもへの対応」として向山氏の例が紹介されている。

 「○○さんが聞いていなかったから、もう一度言って」


 この言葉かけの素晴らしさはいくつかの視点で分析できる。(明日へ)

説明責任の一歩目から三歩目

2006年08月08日 | 読書
 TOSS小事典シリーズの『学校の説明責任QA事典』(舘野健三著)を読んだ。

 章立てが二つあり
「保護者の要求や疑問・クレームに対する説明責任」と
「学校発で保護者に対して求める説明責任」となっていた。。
 後者に注目したが、やや肩透かしであった。
 学校教育の範疇を越えていることを重々承知しながらも、それでも働きかけていかなければならないという姿勢は認めても、ではどうするかという具体策が乏しい気がした。
 Qに対してAが正対していない項目が多かったと思う。それだけ困難なQであることを認識したのは確かだか…。

 しかし、第一章についてはいくつか納得させられるものがあった。
 自分自身「説明責任」という言葉を、何度も何度も耳にしながら漠然としたイメージしか抱いていなかったのではないかと反省させられた。
 次の言葉は、明快である。

 保護者に説明責任を果たすことは、指導の記録を示すことである。

 どんなことを問われても、その事実に正対した記録のあることが、説明責任の前提となる。
 そのうえでどんなふうに説明するかを考えるのだ、ということを今更ながらに思う。
 保護者の要求が最終的に何なのか見定めることも必要であるし、今後どうするかという展望を持つことも不可欠であるが、まず自分たちの指導や業務について明確にしておくことぬきには考えられない。
 従って、学習指導も生徒指導も安全管理も、計画、実施、反省等は努めて文章化、記録化されなければならない。

 学期中に小さなトラブルがあった。
 そのことに対する保護者の要求に対して、上手にこたえられなかったことがある。
 「事実、指導の記録」はあったのだが、それを手元において説明するという余裕がなかった。いや習慣がなかった。話を聞いて、認めて、説得して…といった表面を繕うような進めかただったと反省している。

 記録をとるということ…これが説明責任への一歩目であり
 記録がある、整理されているということが次である。
 そして、記録をもとに話す…ここで体制ができたといえる。

「みがく」への道

2006年08月07日 | 読書
 2月に他界された家本芳郎氏の本を読んだ。
『〈教育力〉をみがく』(寺子屋新書)である。

 教育雑誌を彩ることばとしても「○○力」ブームは続いているが
「教育力」ということばは、そうした新語?とは違ってずいぶん以前からあったと思う。
 学校の教育力とか家庭、地域の教育力という使い方をしていたはずだ。
 しかし、ここで掲げられている〈教育力〉は、教師に限定されている。
 もちろん、それは私自身一番関心が高いことだし、学校教育の現場として肝心なことでもある。

 氏は、こう定義する。

〈教育力〉とは、指導の力、人格の力、管理の力である

 それぞれの力量について、具体的で説得力のある文章が綴られている。
 精神論や観念論ではなく、技術を伴ってそれらの力量をつけるための道筋のヒントが豊富に記されている。

 よく「やめろ」「やめなさい」は、十三通りのニュアンスで表現できる技量がほしいと言われる。

 要請された指導項目は「時間軸」「軽重」「対象」で仕分けして、指導しなくてはならない。

 こういう研究で大切なことは、一つの方法に統一しないことだ。たとえば「毅然とした態度で『私語はやめなさい』と注意する」というように統一しないことだ。みんながみんな、体育の教師のようにみるからに怖そうではないからだ。目標は「私語をやめさせる」ことで、その方法は「各自の自由」である。

 
 氏は、「自分を知る」ことを大切にされ、「指導」を中心に自分の教育力をみがいたという。
 しかしその指導を支えるのは、人格であり、日常の姿勢であることをけして忘れなかった。「高める」「伸ばす」ということでなく、「みがく」ということばを選んだことにそれを痛切に感じるし、この本にある数多くエピソードがそれを顕著に物語っている。
 あとがきに書かれた「パチンコ屋」での親とのエピソードに、冷静な眼差しに裏打ちされたどこまでも熱い氏のハートを感ずるのは私だけではないだろう。

 氏の群読の講座を受けたのはたった1回きりであったが、あの張りのある声での統率力は、今も鮮やかに思い出すことができる。

野口先生こそ、自律の人である

2006年08月06日 | 雑記帳
鍛える国語教室イン津軽に参加した。

この夏、2回目の野口先生の講座拝聴である。

会の最初の『野口流素材研究法』。
先生は「素材研究」の大切さを強調しておられることは十分承知していた。
何回かその具体的手法の講座もうけたときがある。
しかし、今回はその意味付けを「水源の高さ」という言葉で表し
その重要性を一層強く訴えられたように思う。

実際に問いかけられながらの分析によって
私だけでなく聴衆のほとんどが、自らの読みの浅さに気づいていった。

ある面で見れば、かつての教育技術の法則化運動によって広まった
「100の発問づくり」「すべての言葉を辞典で調べる」にも似ているが
そのレベルを一つ突き抜ける深みがある。
今回の例でいえば、
「アーチ橋」の読み方であり
「そうです」の後の読点である。
言葉への関心、こだわりを持ち続けることによってしか
そうした視点はうまれないだろう。
(そういえば、先生を車でお送りしたときに、
 通りすがりの店舗の名前の由来なども聞かれたことがあった)

その後の音読の模擬授業、教養講座でも
もちろん何度も聴いたお話はあるのだが
必ず、「えっ」という意表をつく言葉や
メモしておきたくなるフレーズが出てくる。
これこそ、野口講座の醍醐味であり、
先生がいかに言葉にこだわり、どれほど言葉を吟味しているかを
私たちに想像させてくれる証拠でもある。

今回、筆圧を込めてメモした一つに次の言葉がある。

 実態に制度を合わせることを「くずれ」という

実態にあわせて、という言辞はかなり常識的であり、一般的だが
そこに向かう私たちの意識はどうなのか、
と強く問われている気がした。

最後の講座で、先生は
「この野口は、自律か、他律か」と聴衆に問われた。
ある方が、先生の「他律的自律」という造語を知っていて
「他律」に挙手なされていたが、それは解釈を間違えているだろう。
むろん私も知っていた。
「他律的自律」は私にとっても処世訓の一つである。
しかし「言うは易く行うは難し」である。
他律的と頭につけても、自律は自律している姿なのである。

野口先生こそ、自律の人である。

再び『オレ様化』、どう向かう 

2006年08月03日 | 読書
研修会終了後、野口芳宏先生を新幹線発着駅までお送りするときに
車内で様々な話をした。
その中で諏訪哲二氏のことについて触れたら
先生が「ああ、オレ様化ね」と応えてくださった。
野口先生も確かに読んでおられた。その主張に重なる部分も多い。

『オレ様化する子どもたち』の終章は、じっくりと読み直したい部分である。

 まだ子どものありようの社会的な「客観値」は成立している

 この認識を詰めてみることが必要だ。否定的な現状を挙げたとしても
「耐える力が足りない」「わがままである」「礼儀を知らない」…
必ず共通認識を持てるものがある。
 そのためにどんなことをするか、という具体的行動の吟味をより戦略的に行うことが腕の見せ所と言っていいだろう。

 普通教育においてまで重視されるべきであるのは
 「個性化」よりも「社会化」である。

 市民形成(社会化)のプロセスで潰されてしまうような「個性」は潰されるべきである。
 そういうレベルの「個性」を潰すために、「社会化」はなされるのである。



 この点をわかりやすく、しつこく説かなければならない。
 子どもを取り巻く人的環境を見きわめながら、働きかける必要がある。
しかし、それはあくまで「子どもの教育」を通して、が幹である。

 「この学校は、この教師は、子どもをこのように育てようとしている」
ということを見せつける教育の日常を作り出していく、ということに他ならない。
 概念的な目標の文言ではなく、つけたい力を明確にし具体例で示すことである。
 意識的な取り組みは、急務である。

フィンランド・メソッドは「型」の教育

2006年08月02日 | 読書
 東京駅前の大きな書店には、以前から読みたいと思っていた「フィンランドの教育」に関しての本が平積みされていた。
 その中でも読みやすそうな『図解フィンランド・メソッド入門』(北川達夫・経済界)を購入し、読んでみた。フィンランド大使館に外交官として勤めたキャリアを持つ著者は、フィンランドの教育メソッドに関しての造詣が深く、その普及会会長という肩書きも持っている。国の全体的な姿も含めて概観するには適した書物だった。

 「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」そして「コミュニケーション力」と分類されて、いくつかの方法が具体的に記されていた。
 今まで見聞きした方法・技術とかなり似通っているものも多いが、初めて目にした興味深い方法もある。
 例えば「作文」の分野では、次の設定など非常におもしろいと感じた。
   15個の単語を使って、できるだけ短い作文を書く
   知られている物語の、ある要素だけを変えて書き換えてみる


 しかし考えてみれば、そうした個々のネタとしておもしろいものは、我が国の教科書の中にも散見されるようになってきている。ただ、それらがどういう位置づけになっているか体系立てられたものがない、いやあったとしても現場の教師の多くには見えない、というのが現状であろう。その意味で、やはり日常的に使える教科書づくりが、大きなポイントになってくると改めて思った。

 著者は、我が国の児童生徒の「発想力の低下」を取り上げ、あとがきにこう記している。

 「自由」という言葉にとらわれすぎて、何かを強いることを極端に恐れ、必要な訓練すらほどこさなかった結果、自由に発想する力すら育てられていないのではないでしょうか。


 発想力に関しての比較データがあるのかどうか定かではないが、画一的な発想になっているという印象は私も持っている。これを打開していくには、逆説的ながら「一定の型」を与えることが効果的だと著者は言う。まったく同感である。「豊かな」という形容詞に惑わされて、観念的な指導に向かいがちな国語教育の現状は改めなければならない。

 フィンランド・メソッドの一つの要点が「型」にあることは、もっと強調されていい。

曲芸に、すぐれた授業の要素を見る

2006年08月01日 | 雑記帳
 魅せられた芸がある。

 新宿末広亭、七月下席昼の部の唯一の曲芸である。
 「ボンボンブラザース」という名のコンビで、出番が主任の前なので、かなりのベテランと見た。曲芸としてよくあるバランスをとる芸で、鼻の上に乗せるというものだ。

 そこに乗せられたのは、長さが50センチメートルばかりの細長い紙片である。

 このシンプルな芸に魅せられた。
 重さのない紙ゆえにできることだろうが、紙が斜めの状態になっても身体の位置を微妙に変えることでバランスを保つことができる。あやうく倒れるところを体の動きでカバーしていく。この繰り返しが演じられるのだが、不思議に見飽きない。観客も一体化したように声を出したりしている。

 なぜ、これほどまでに魅せられたのか。
 場面を思い起こしながら、考えた。

 一つは素材のシンプルさであり、身近さである。
材質が少し固めの厚紙であり、どこにでもあり、誰もがその重さを想像できる。
 次に、倒れそうで倒れないぎりぎりのラインを見せていることである。
繰り返した中には失敗もあったので、限界が客にも分かっている。
紙なので、何回もやり直しがきくというメリットもあったはずだ。
 そして、演ずる場所を広範囲にとり、動きにも変化を持たせている。
舞台の右左はもちろん、客席に降りて、そして後ろ向きで上るなど、演者は様々に動き、観客に期待を抱かせていた。

 シンプルさ、身近さ。
 ぎりぎりのライン。
 そして、変化を持たせる。

 
 すぐれた授業の要素として語られることばが、そこにもあった。