すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

心の黒板を広げよ

2009年08月18日 | 読書
 『診察室でする治療・教育』(横山浩之著 明治図書)

 弘前での鍛える国語教室の時に買い求めた本である。講話の中心だった教育目標の分類が興味深かったので手にしたのだが、それだけに留まらないさすがの内容だった。
 「軽度発達障害に医師が使うスキル」が副題として挙げられている。しかしその内容は、乳児期から児童期まで見通してそれぞれの発達段階と照応した技術が満載だった。障害を抱える子供を対象とはしているが、実は全ての子供と関わる大人の接し方に通ずることはすぐにわかった。

 自分が知らなかった知識や従来の常道的な指導と相反することもあり、認知領域の「想起」を刺激させられ、その「解釈」への意欲が湧いてきたと言えるだろう。

 例えば、なぜ子どもに「お手伝い」をさせるのか、どういうお手伝いが適切なのか、恥ずかしながらそんなに掘り下げて考えたこともなかった。この問いには明快な答えが準備されていた。

 お手伝いをさせると段取りをつける力ができるから

とすれば、どういう順序でどんな中身を与えるべきか、自ずと見えてくる。


 印象的な言葉があった。

 三段論法を使わないとテーマを取り出すことができない教材の読みとりも可能となっている。言ってみれば「心の黒板」ができてくるのだ。

 「心の黒板」…実にいい表現だなと思った。
 ワーキングメモリー等という用語との関連もあるのだろうが、子どもが知識と思考方法を学ぶことによって、自らの心の中に考えの筋道を書いていくスペースを作り上げていくというイメージのある言葉だ。
 ここでは指導段階の比喩として取り上げられているのだが、通常学級での子どもたちの指導にも直接使えそうないい響きがある。

 久々に学びがいのある本だった。

無敵だぞ、陣内

2009年08月17日 | 読書
 小説の中の人物に惹かれることはしばしばあるが、こいつにはまったく参った、という感じである。

 『チルドレン』(伊坂幸太郎著 講談社文庫)に登場する陣内という男だ。

 5つの短編連作集は、それぞれに主人公というべき話者が違っているが、そこに深く関わるのが陣内であり、その言動が素晴らしく面白い。

 最初の「バンク」の設定は銀行強盗の人質だが、捕まっている中でビートルズの歌を唄ってみたり、かなりな口調で逆らってみたり、いくら小説でもあり得ないだろうと思うほどだったが、そういう陣内の語る言葉はいつも正しい(と、だんだん思ってくるから不思議だ)。

 表題作の「チルドレン」で家裁調査官になっている陣内の言葉はかなり素敵だ。そして行動はそれ以上に大胆だ。
 いじめの場に遭遇して、いじめられている子どもを真っ先に殴ってしまうなどという「方法」は学んで身につけられるものだろうか。

 「レトリーバー」の展開は陣内の奔放さが満開だ。満足に言葉を交わしたことのない女性に告白する前に、引き気味の話者にこう宣言する。

 「『絶対』と言い切れることがひとつもないなんて、生きている意味がないだろ」
 
 そしてあえなく敗北して、次に考えたのがそんな失恋した自分のために「世界が止まった」ということ…そのあたりの件もまた絶妙だ。

 大胆に言い切った翌日には正反対の言葉を吐いてみたり、話者となる周囲の知り合いたちがそれに翻弄される物語とも言えるのだが、それはまさしく「奇跡」という言葉で括られるんだなあと思った。

 陣内はけして自分が世界の中心だなんて思ってはいないだろう。

 しかし、その生き方は無敵だ。

お盆休みの戯言か

2009年08月16日 | 読書
 「多面的な見方」とか「複眼的な思考」とか、よく自分も口にはするのだけれど、それにしたって何か大きな河に流されている棒切れの範囲のこと…そんなふうに思う時がある。

 今、感じている、考えている自分は確かにここにいて、立ち上がることも声を出すことも頭をかきむしることも出来るのだけれど、それをしないままキーボードに向かう俺っていったい何?など、わき上がってくる時もある。

 自分が「自由」にものを見ているなどとは考えたこともない。そう言いながら、何から自由になれないのかをあまり突き詰めて考えてもこなかった。

 何かの枠組みで考え、誰かの影響を受けながら言葉を紡ぎだし、その言葉の流れの密度や速度によって消化の程度はわかっているつもりだが、それに満足できるのはほんのわずかだ。


 『寝ながら学べる構造主義』(内田樹著 文春新書)を読んだ。

 お盆休み、まさに寝ながら読んだ。
 時折、眠りにおちて本をバサリと落とす。初めて触れる哲学者たちの考えにほおうっと思ったり、読みきれず活字だけが走っていったりしながら、読み終えた。

 その程度の自分が所属する構造など何ほどのものかと思うが、その現実もまた構造の一部でしかあり得ない。

 自己判断の客観化という大人の考えもまた、それを包む強い主観を作るための問いの立て方とセットになっていることを知らなければ、実行しなければ、単なる腑抜けの戯言である。先祖も浮かばれまい。

ダトヘバ、ナジス

2009年08月15日 | 読書
 いかにローカルとはいえ、出版社の名前さえヒットしなかった。
 書名の検索では、わずかに県内のとある議員が読んだと記録しているブログが1件。
 そういう図書に目が向く自分も、いかにローカルでマイナーかがわかる。
 そこはさておき、なかなか面白い発想ではないか。

 『おらほがもし100人の村だとへば(秋田県版)』(島澤諭著 東北文化出版)
 
 当然ながら、数年前のベストセラーの発想を借りて、全国一の学力?と人口減少率を誇る我が県の実情を語るものである。
 原因や解釈は書き込まれていないが、ダウンサイジングによって鮮明に見えてくる事実には、詳細に示されるデータよりも力があることを知らされる。

秋田県がもし100人の村だったら
1年間に1人亡くなり、
1人、生まれます。
1人、秋田村に移り住み、
2人、秋田村を出ていきます。
 
 総人口111万人のこの県にとっておそらく一番重いこの表記が頭に残る。
 人口流出は過疎の地方にとっては避けられない問題であり、国全体の構造とも強く結びつくわけだが、「村民」としての立場での努力も無視できないだろう。どこから手をつけられるか、
 そんなヒントがこの本から見つけられないものか、ひととき思案した。

 ところで、100人の村でなくてもいい数値だが、「塩」と「砂糖」の世帯あたりの消費量が全国一であることに少しびっくりした。
 単純にはいいイメージはないが、一つの食文化があることも確かであり、そのあたりに光は見えないものか。

医師の制止を振り切って

2009年08月14日 | 雑記帳
 ああ、とうとうやってしまった。
 無意識にそれに手が伸びてしまったのだ。

 かかってきた電話に応答している間に、受話器を持たないもう一方の手が、知らず知らずのうちにそれに伸びて…、
 そしてあれだけ医師に止められていたのに、何のためらいもなく、つまり本能の従うままに、それを身体の内部に深く入れて…やってしまった。

 受話器をおいた時、はっと気づいたがもうすでに遅く、自分自身のしている行為の愚かさに呆然と立ち尽くした。


 先週末、どうしても気になって、隣市の医院で受診した。
 看護師による問診、医師による触診、検診、そして機器をつかった検査をして、再び医師による説明。

 「骨が出てきています。まずしばらく止めなさい。やると気持ちいいことは十分わかりますが…」

 えっ、そんな。

 私の唯一の、楽しみが奪われるのか…落胆…しかし、この身体の状態でいいわけがないし、ここは我慢、我慢と懸命にその欲望を抑え込んでいたのだ。

 注射もせず、薬も処方されず、ただそれを止めれば事態は改善すると医師が言うのだから、なんとしても我慢せねばと、あれほど誓ったのに…クヤシイデス!(ザ・ブングル加藤調)

 診察日からわずか5日目。
 医師の制止を振り切って…
 「耳かき」をしてしまいました。

鍛国研津軽…その参

2009年08月13日 | 雑記帳
 午後からの野口先生の二つの講座は、何度か聞いているものである。
 だから、つまらなかった…ということにはもちろんならない。
 明快に、ユーモアを入れて、それでいて厳しく奥深い言葉が提示される、その度に新鮮な発見がある。
 だから、私は「繰り返し聴く」ことの大切さをいつも肝に銘じている。

 今回の講座で特にここに記しておきたいのは、次の言葉である。

 手に入れたものは全て失い、与えたものだけが残る
 
 確かに人は何かを手に入れようと毎日を過ごしているが、そんな生き方しかできないのでは、やはり悲しい。この言葉の持つ圧倒的な事実に1ミリでも近づければいい。

 柳谷先生の講座名が今流行の?「読解表現力」となっていたので、大いに期待した。
 プランくんを使ういつもの技法で「授業」が進められた。「読みとったことについて自分の考えを表現する」力を育てるために必要なことは、やはり視点であり、方法・型であろう。しかしプランくんにどうも慣れない私などは、自由度の高い形式ゆえか最後まで考えがまとまらなかった。教材文についての発問も判断するレベルが曖昧なままに提示されたとことが少し残念だった。

 大谷先生の講座は初めてだった。
 実に明晰なお話をする方である。講座の導入、展開そして演習と見事な構成の内容だった。ディスレキシアという目新しい言葉についての知識も得られたし、今まで見てきた子どもたちの姿が浮かんできたので、この後の参考となる。ひらがなシート一つとっても、その配列や工夫の意図をくみ取る大切さを学んだ気がする。

 「鍛国研津軽」は今回が10回という。
 継続は力なり。中心となっている駒井先生およびスタッフには頭が下がる。今夏もいい研修をさせてもらった。

鍛国研津軽…その弐

2009年08月12日 | 雑記帳
 横山浩之先生による「野口先生の授業を医師の目から分析・解説」は非常に興味深かった。
 かなり以前仙台での会だったと思うが、ほんの少しそうした解説を伺った記憶がある。しかし今回は十分に時間をとった解説であり、かつ十分に納得のできるものだった。

 Bloomの教育目標分類をもとに語られたが、この三領域を意識することは、授業づくりにも、授業分析にも、かなり役立つのではないかと考える。

 すぐれた授業は三領域を満たす
 
 「認知領域」「情意領域」「精神運動領域」…一時間の授業が単元全体のどの位置にあるかで、三領域のバランスは異なるだろうし、また担任の考え方、鍛え方によって三領域のレベルの頻度も違ってくるだろう。そこに意識的であることは授業力を高めるうえで効果的に働くはずだ。

 実は、会の前日にある月刊誌を読んで疑問に思っていたことがある。著名な実践家である岩下修氏の発問が載せられていた。

 発問A  先生には、どうしても不思議なところがあるのですが、一緒に考えてくれますか?

 というものである。
 これが発問かと思った。
 手元にある「授業研究用語辞典」も開いてみた。どうも腑に落ちない。

 この「発問」に対する子どもの返答はあきらかに授業を左右するものであるが、あまりに包括的ではないかと考えた。ただ、内容のみに縛られた窮屈な見方を自分がしているかもしれないという思いもあり…。

 資料Bloom の教育目標の分類によれば、岩下先生の発問は「情意領域」に問いかけていることになる。
 その発問を考えつき「これで、いけると思った」わけは、明らかに情意領域(態度・習慣)が育っているからだと予想される。つまり、「受け入れ」の段階を越え、「反応」に働きかけているわけだ。

 それは結局、担任と子どもが、そこまでの授業内容を通して関わりを持てているからこその「発問」なのである。そんなことを考えた。

 その一言で授業が動くためには、的確な子どもの見取りが必要である。
 そう考えると、野口先生の飛び込み授業における発問、指示が三領域のどれもに働きかけていたことの凄さが今さらながらに見えてくる。

鍛国研津軽…その壱

2009年08月11日 | 雑記帳
 野口芳宏先生の5年生対象の授業。
 「大造じいさんとがん」の最終場面である。

 飛び込みしかも夏休み真っ盛りにわざわざ登校してきた子どもたちが相手である。教室は参観者であふれ、気温もだいぶ高い。45分集中を切らさずに学習を続けることもかなり困難のように感じた。
 その中で子どもたちがほぼ集中をきらさず活動を続けた理由を考えてみると、一番大きいのはやはりこれかなと思う。

 言葉にこだわった発問の連続と筆答の指示  

 野口先生の授業にしばしば見られる型であるが、今回は特にそれを感じた。発問として子どもたちに問いかけたのは次の5つである。(これ以外にも、子どもの返答に対する全体への問いかけもある)

「なぜ、大造じいさんは残雪をおりの中に入れたのか」
「なぜ、晴れた日を選んだのか」
「『じいさんは、おりのふたを~~』の文で一番大事なことばは何か」
「『一直線に』はどういうことを表しているのか」
「じいさんが残雪を不満と思っていないことがどこでわかるか」
 
 読み流してしまうような箇所を取り上げ、作品の核にふれていくという見事な構成だと思う。各発問、指示のレベルが教育目標論としてどの位置にあるのかも横山医師から的確な説明を聞き、得心した。

 作品を徹底的に読み込み、言葉へのこだわりを持ち、自分の解釈を完成させているから、こうした発問が生みだされていることは間違いない。
 特に「一直線に」を扱ったところで、ともすれば「人間と動物の心の通い合い」のような甘い想像をしがちだが、「野生」という一言で束ねられたときには、目を見開かされた思いがした。

 ただ今回は野口先生の「受け」には多少の疑問が残る。
 あれっと感じたところは二ヶ所あった。子どもの返答の不完全さを補う問いかけをなさらず、そのまま取り上げて解釈が進んだことが残念だった。そうしたモヤモヤさを抱えて終わった子も中にはいるのではないか。

 子どもの声の解釈は急いではいけないことを痛切に感じた。
 そのためにどんなことをすべきだったか、自分の中で二、三の方法が思いついたことも収穫である。

仕掛け、仕掛けられ

2009年08月08日 | 雑記帳
 木曜日に秋田大学の阿部昇先生を迎えての講座を持った。

 文学教材の指導を中心に2時間以上もじっくりとお話を聴くことができたが、先生が盛んに繰り返していた言葉の一つに「仕掛け」ということがあった。
 講座が終わり、少し雑談したときに「先生が使われた『仕掛け』という言葉は、単なる『伏線』という意味とは違うんですね」と訊ねてみたことから、文学指導における学習用語、指導用語についてのお考えをさらに伺えた。
 いい時間になった。

 ところで、この「仕掛け」という言葉はなかなか面白いと思う。
 文学の分析・解釈上でこの言葉を用いると、改めてその範囲の広さに気づく。広辞苑をもとにしても
 ①「やり方」
 ②行動に出ること。攻勢をかけること
 ③用意
 ④装置、からくり。また作り具合、構え。
 ⑤詐欺などの企み 
 (この後⑥⑦と続くが略)

 があり、②や⑤はともかくそれぞれに当てはまりそうな気がする。おそらく④が一番ふさわしく、構成にある伏線、文章表現にある技法、特定の言語や文字への連想などを総称できるように思う。
 
 となると読解とは「仕掛けを見抜く」ことに他ならない。
 見抜くための目のつけ所や検証の仕方などを身につけることの重要性は言うまでもないだろう。
 しかしまた楽しみとしての読書は、その仕掛けを意識しては逆につまらなくなることもあるだろうし、まんまとはまる無邪気さや素直さを持ち合わせていたい。

 ああそうだったか…この一節が忘れられない…そんな気分で読了できる幸せ者は、仕掛けにはまった者だけだ。

「断景」という言葉が語る

2009年08月06日 | 読書
 『星に願いを~さつき断景~』(重松清著 新潮文庫)

 「彼らが生きた1995年から2000年までの六年間の、それぞれの五月一日を取り出す」形で物語が進行する。彼らとは、タカユキという十代の若者、三十代のヤマグチ、そして五十代のアサダ。連作短編的と言えないこともないが、結局三人の人生がどこかで交わることもないので、まさに「断景」である。

 それにしてもこの「断景」、意味は想像できるが、辞書にはまったく該当なし、ネット検索してみてもこの「さつき断景」のみしか出てこないという、極め付きの重松的造語と言えよう。
 日付限定であり、しかも人物や設定もかなり限定されているということが「断」に込められているのだが、この漢字は厳しい響きだなあと改めて思う。二度目の文庫化によって「星に願いを」と改題された意図は、そのあたりにもあるかもしれない。

 ルポタ―ジュも手がける著者らしくある意味淡々と事実が記される部分が効果的に挿入されている。巻末の案内文はこう記される。

 阪神大震災、オウム事件、少年犯罪…不安だらけのあの頃、それでも大切なものは見失わなかった。
 
 ウェブ上の紹介には「大切なものはいつもそこにあった」と書かれていて、その微妙な違い?が私には大きく感じた。
 つまり95年は、大切なものがなくなっていくことが顕在化した年は考えてもよくないかと思う。世の中を揺るがした大きな事件、天災があり、人々は大切なものをたくさん失った。
 当事者でない人間にとってはその喪失感は程度の差があるのだろうが、周囲を見渡しても今まで自分を支えてくれていた大切なものが姿を消していくことが顕著になった時期とも言えるのではないか。

 その中でもがき苦しみながら、何かしらの生きる縁はあったという物語なのだろうが、「見失わない」と「そこにある」という表現の重なりから見えてくるものは、自分の近くにあるけれどしっかりつかみきれていないという意味でもある。

 人間の弱さを丸出しした三人が、それでもなお生きるために、目に見えないものをさがしている景色が語られた。
 それがまた常に危うさと背中合わせであることも、断景という言葉の響きと重なっている。