すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

驚いた連載から思う

2011年01月16日 | 読書
 ちょっと驚いた。

 『国語教育』(明治図書)2月号である。
 「読書活動の日常化への取り組み」ということで連載しているのが大森修先生。第11回目となる今月号が、次のように題されて目次に載っている。

 秋田県教育委員会の挑戦!「秋田わか杉っ子 学びの十か条」に見る挑戦

 あの大森先生の執筆である。
 どんな辛口が炸裂するものかと、秋田県教員としては少し不届きな思いを持ってしまったが、さにあらず、なんと高評価の内容である。

 こうした連載に限らず、批判突っ込みが大森先生のパターンであり、その大森節が結構好きな私としては、拍子抜けするほどの賞賛である。
 最近、連載などもあまり目を通していないので、方向転換?したのかななどと失礼なことを考えたが、前号から三冊ほどめくってみてもそういうことではないらしい。

 連載は読書がテーマなので、十か条の「三 読書で拓く心と世界 ~めくるページ、広がる想像力」を冒頭に挙げながら、十か条の半数ほどのロゴ、内容のすばらしさについて記している。
 ごく当然の内容と思うのだが、大森先生の言によると、他で見られる多くは「現実を動かすことに無力な絵空ごとかスローガン」になっているのだろう。

 指摘されて改めて気づくのだが、「読書」が三番目に位置していることや、「難問・難題」(算数・数学)があることなどは、かなり特徴的なのかもしれないし、その意味をもっと深く砕いても良さそうだ。

 現場の私たちが考えなければいけないのは、最後に書かれてある次のこと。

 学びの十か条は、各学校の学校運営でも活用されているということである。

 昨年度は、学校報を通じて半分ほどロゴについて取り上げ、小文も添えてみた。それがどう功を奏しているかは明確ではない。
 しかしやはり言い続けていくことが必要だし、「画期的な試み」として浸透させていくには、もう一歩策を練らなければ、と思う。

プリコラージュへ踏み出す

2011年01月14日 | 読書
 長いような短いような冬休みが終わった。
 正直なところ、あまり生産的なこともできず、かといって読書三昧ということにもならず、ぼんやりとした年明けからのスタートだ。
 理由ははっきりしているが、そのことに囚われていてはちょっとしんどくなっていく。学期開始を機に、今年の再スタートとしたい。

 ぱらぱらと雑誌をめくっていたら、ある言葉が目に入ってきた。

 プリコラージュ

 人類学者レヴィ-ストロースの言だという。

 手持ちの雑多な材料を組み合わせて別の物に作り変え、新しい状況に対応していく方法を指している。
 
 新しいことに挑戦したい気持ちはあるのだが、年々腰が重くなっている。様々な衰えを感じている現実だが、無理がきかないからといって、その状態に身を任せていては、もう真っ逆さまだなということもわかる。

 そこでどうするか。
 今まで手にかけてきたことをもう一度見直して、息を吹きかけてみる。ものにならなかった数多くのことを並べてみて、分けてみたり、組み替えてみたり、混ぜてみたりする。

 まず、落穂拾いのようなものだな。
 なんだか、あまり見栄えのしない、景気のいい話ではないが、自分に今必要なのは、いや有効なのはそういうことなのかもしれない。

 と考えると、この休みにわずかに手をかけたのは、ここ4,5年の自分の原稿等のまとめだったなあ。一区切りをつけたいという思いもあって、年末から整理している。
 なんだ、結構いいことをしているじゃないか。

 ブリコラージュへ踏み出す三学期…ちょっと格好をつけてみると、それなりに元気が出てくる。

書名に惚れる

2011年01月13日 | 読書
 いくら中古書店に並んでいたとしても、書名だけを見て即買おうと思ってしまう本は今まであったろうか。
 一応、ペラペラとめくってみて、ちょっとでもひっかかる箇所が目に入ったら考えるのが普通だ。

 唐突に、先日読んだ『ゴールデンスランバー』の一節が思い浮かぶ。
 
 「勢いで行動するんじゃなくてさ、もっと、冷静に手順を踏むのが人間だよ」 

 その通りだよと思いつつ、なぜか背表紙を見た瞬間に買おうと決めたのだった。

 著者が好きだったから?

 いいや、著者は土屋賢二。
 2,3冊は文庫本を読んでいると思うが、ファンではない。
 あの独特の書きまわし…ユーモアというのでもない、自慢や自虐ともいえない、しいて本文中から挙げると

 不可能を可能にした男

 である。一度読んだ人はわかるだろうが、とにかく、自分はやろうと思えば何でもできる人間、ただやらないだけ。能力は無限だが、やる気は永遠に起こらない。なぜなら奥ゆかしいから…といった調子なのである。
 例えばこの一文は素晴らしく著者を表している。

 わたしの一番の自慢は、この謙虚さだ。


 ああ、そうそう、これは「書名」の話であった。

 おそらくこの著者にとって、まさに永遠の壁であり、弾圧者であり、観察対象であり、危険人物であるその人が(普通の人間から見ればごく平凡な人物なのだが)たびたび登場するので、取り上げられたことと思う。それは、

 『妻と罰』(文藝春秋)

 これほどインパクトのある書名に、今まで出逢ったことがあったろうか。

「ケ」の日を語ろう

2011年01月12日 | 雑記帳
 ほぼ一週間雪が降り続いている。
 久々の出勤だったので、周辺の道路もだいぶ狭くなったことにびっくりしてしまった。もはや「豪雪」と呼んでもいいほどである。

 朝のローカルラジオでもそんな話題ばかり…。
 女性アナウンサーが「ユギチョシ」という言葉を使った。
 うーん、それは間違いとは言えないが、今この季節ではないような気がする。仮に今の季節であっても天候がよいときに使う言葉だと思う。
つまり、チョスという軽い感じの動きで、スカスカと雪が消えていくような状況…そういう使い方ではないかな。

 ここ数日の雪は、押しても寄せても投げても次から次へ積もっていくので、まさしく戦いに近い。
 ただ正月が穏やかだったので、あまり疲れていない分だけ人々はまだ大丈夫だが、来週以降も続くようだと持久戦という気がする。
 そうならないことを祈る。

 さて、劇作家の別役実が、ビジネス雑誌にこんなことを書いていた。

 相変わらず消費を煽る情報に踊らされ、われわれはいつまでも民俗学でいう「ハレ」から「ケ」に戻ることができない。(中略)実に気持ちの悪い「半ハレ」の状態なのだ。

 別役は、皮膚感覚や「ふつう」の感覚の重要性を説く。
 そのためには、自らの「根っこ」を再認識することだという。
 そしてその大きな手段として「方言」を挙げている。
 
 自らの根っこと言われたとき、その中にこの雪の存在は必ずあると想う。
 この雪かきの日々はまさに「ケ」以外の何物でもない。
 そこで呟かれる独白、交わされる会話が方言であることはほぼ間違いない。
 
 この感覚の中に、内なる希望がある。生身の自分がいるとでも言うべきか。
 そう、しっかり足を地につけて「ケ」の日を語ろう。

脱ぎ着できない生き方

2011年01月10日 | 雑記帳
 話題の映画『最後の忠臣蔵』を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/chushingura/main.html

 役所広司、佐藤浩市という配役もさることながら、杉田成道監督が興味を抱かせる。

 美しい画面だった。
 風景に重なって人の心の美しさを映し出されていた、などという陳腐な表現が思い浮かぶ。
 曽根崎心中の浄瑠璃が挿入されていく流れだが、自分に素養があればもっと深い感じ方ができるかもしれないと、微妙にひっかかりがあったことも確かだった。

 いずれにしても、この映画はかつての日本人にとって「死」とは何か、生きるとはどういうことか、を考えさせてくれる。

 例えば、悪いことをしたら死ななければならない。
 例えば、主君に仕えることは身を捧げるということである。
 いったん約束したことは守らなければならない。それが自分の心に背くことであっても、自らの肉体を葬ることになっても。

 公式ホームページのコメント一覧に、脚本家君塚良一がシャレた言葉を残している。

 人はその生き方をコートのように着たり脱いだりしてはいけない

 その在り様はもはや希少となっているが、これ以上遠ざけてはいけないようにも思う。


 さて、なぜかすっきりしないのは、この映画がワーナーブラザーズによって配給されていること。業界には詳しくないが、そういう時代なんだなと気づかされる。

教育の「ガラパゴス化」という表現

2011年01月09日 | 雑記帳
 先日参加した研修会で配布された「研修趣旨について」という1枚資料の末尾に面白い表現があった。

 秋田の国語教育を「ガラパゴス」化してはいけない

 「ガラパゴス化」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9%E5%8C%96
と括っていいと思うが、そこに何か深い訳でもあるのだろうか。
 いずれにしても単純に考えれば、県内だけで小さくまとまらず広く目を向けて発展させたい、という意味なのだろう。

 しかし、言語の教科である国語教育を語るとすれば、もう少し突っ込んでその意味を探ってみてもよくないか。
 
 つまり、「ガラパゴス化」が教育という範疇において使える用語なのかが一つ。
 そして、使えるとすればそれは悪いことなのかどうかという点である。

 自分がガラパゴス化という意味を知ったのは、確か「ガラパーケータイ」という言葉を目にしたときだった。なるほど上手い表現だなと感じたが、まあ製品や市場の概念という印象だった。

 それが教育の世界でも使われるとは考えていなかったが、大学教育に関しては様々な発言をする人がいて、キャリア教育、人材育成という面でも確かに当てはまるような気がした。
 その意味では、具体的な例としてある特定の「教育課程のガラパゴス化」という表現は通用すると考えられる。

 では「秋田の国語教育」ではどうか。
 ちょっとこれに当てはめるのは難しい気がする。
 何を指しているのかが不明確だからだ。目的なのか、方向なのか、具体的な実践なのか…それらを包括した全体なのか、だとしたら法規や指導要領との関わりはどうなのか。
 
 では仮に全体的な取り組みととらえてみて、「ガラパゴス化」は悪いのだろうか。
 グローバル化の波が押し寄せてきていることは実感しながらも、そこで必要とされている力を表面的にとらえないで、じっくりとローカルに学ぶことだって必要ではないか。

 ずっと以前から、地方に教育委員会のある意味を問い続けてきた自分にとっては、いわばガラパゴス化は積極的に進めるべき考えのようにも思う。

 そして、そもそも「標準」とは何かという問題にも突き当たる。
 学力テストトップと称賛され、特に「国語の秋田」と題された雑誌特集もされるほどである。いわば「日本の標準」は秋田にあると言っていい。
 あっ、そうか。問題なのは「世界標準」でありこの国の標準ではない。そうすれば、この国の標準たる秋田の動きは、世界標準なのかガラパゴスなのか決定する大きな要素になるわけか。
 なかなか、深い(深読み過ぎだろっ)。

 最後に付け加えると、どうしても「市場」的な感覚が残る表現なので、繰り返し使っていてあまり愉快でないのは確かだ。

逃げても見える「習慣と信頼」

2011年01月08日 | 雑記帳
 一週間かかって読了した今年初めての小説は『ゴールデンスランバー』。
 伊坂幸太郎作品である。12月に文庫化されていた。

 700ページ近い長編で、今改めてめくり直すと結構凝った構成であることがわかる。
 第一部「事件のはじまり」と第四部「事件」の間に、短い二部、三部として「事件の視聴者」「事件から二十年後」を入れてあるのだが、全体を見渡すと、これがなかなか面白いと思う。

 詳しく読み砕くときっと様々な伏線があるのだろうけど、すぐ読み直すのはちょっとしんどいので、ここは「惹句の達人」(勝手に命名)伊坂の、この作品でのベスト3を挙げて、感想メモとしたい。

 首相殺害の犯人に仕立てられた主人公青柳雅春の父が、群がるマスコミに向かって放つ言葉。

 自分の仕事が他人の人生を台無しにするかもしれねぇんだったら、覚悟はいるんだよ。バスの運転手も、ビルの設計士も、料理人もな、みんな最善の注意を払ってやってんだよ。なぜなら、他人の人生を背負っているからだ。覚悟を持てよ。

 こんな言葉をよくあるテレビのインタビュワーが群がる画面で聞けたら痛快だろう。放送するわけないか。

 青柳とかかわりを持つことになる連続殺人犯三浦が、最後に言い残すようにつぶやいた言葉。
 この小説の大きな柱はここだ。

 国や権力を敵に回したら、できるのは逃げることだけだ

 その逃げ方が問われる。そこに物語を仕立てるのが作家だ。
 従って、数回出てくるこの言葉がベスト1だなと思っている。
 青柳はこれを頼りに逃げ切った。巻き込まれて爆死した親友森田森吾の言葉

 人間の最大の武器は、習慣と信頼だ。

 逃げ切った後にも、習慣と信頼が人間を支えるというラストシーンも印象が残る。

 展開がはやく、回想シーンが頻繁に出てくるこの話は、やはり映像向きだ。
 早々に映画化されたわけがわかるような気がする。映像でもみてみたい。

靴を磨き続ける人

2011年01月06日 | 雑記帳
 もはや正月のバラエティ番組など見ることはないが、駅伝と映画やドラマなどは気になりチェックしている。

 「シューシャインボーイ」…TV東京で昨年放送されたドラマがBSで再放送されていた。これは実に見入ってしまう作品だった。
 http://www.tvtokyo.co.jp/shoeshine/index.htm

 浅田次郎の原作は読んでいないが、配役もなかなかだし見所が多かった。
 印象に残るセリフも多い。

 社長夫人(星由里子)が語る

 「相手の抱えているもの、引きずっているものも、愛おしいって思う事が、夫婦を長続きさせる秘訣よ」

 バーの女主人(余貴美子)が語る

 「ビルばっかり大きくなって、人間がだんだん小さくなっていく」

 と、女性のセリフを書いたが、実はこれは男の物語。

 浅田次郎はこんなコメントを出していた。

 三つの世代が書かれており、三人の中で一番立派で一番強いのが菊治、一郎は菊治には及ばないが一所懸命やっている。それを見習って塚田もこれから一生懸命やろうと思う、というような三人の話を書きました。

 つまりくぐり抜けた経験の違いが人を形づくるということなのだが、菊治という復員兵役の大滝秀治はいつもに増して凄かったなあと思った。
 大滝といえば、それはあの特徴的な声の印象が圧倒的だ。しかし今回、目の動き、表情であれだけの感情を表現するとは…参りました。

 私たちの世代は「塚田」であるが、その上の世代「一郎」はプライドを守って頑張りぬく強さ、そしてその上「菊治」は、プライドさえも捨てきれる強さと言い換えることができるだろう。

身の置き所を求めて

2011年01月05日 | 雑記帳
 年初めから風邪をひいたのか体調がすぐれずベッドで横になったのだが、不快感や痛みなどで何度寝返りをうっても寝付くことができない。
 そんな状態のなかで、ふと思い出した言葉がある。

 身の置き所がない

 えっ、これは正しい使い方なのかなあ。
 そもそもどういう意味だろうと気になったので、広辞苑で調べてみる。
 慣用句として意味が載っているのは、以下の通り。

 その場にいづらい
 
 念のために『日本語大辞典』(講談社)もめくってみる。

 ①自分のいる場所がない
 ②申し訳なく、恥ずかしくてたまらない
 

 身体の調子であることなど、どこにも書いてはいない。しかし、ずいぶんと以前から使っているような気がする。きっと祖母や母が言っていたに違いない。

 慣用句の妥当な意味が広がってしまい、いや逆に狭まったというべきか、「身体をどんなふうにしても、安らぐことができない」ということを直接的に表したのだ。

 それにしても、「身」という言葉は、たくさんの意味を持っているものだと改めて思う。

 「からだ・身体」の他に、「自分」「身分」「立場」「生き方」「全力」「内部」…といった意味が容易に浮かぶ。
 そう考えてみると、すべからく人は「身の置き所」を求めて行動しているような気もしてくる。
 そこに安穏としているということではなくて、安定した場で力を発揮できるという意味では、実に大切なことである。

 しかし、今は、ああ身の置き所がない、という感じである。

「敬」と「恥」

2011年01月02日 | 雑記帳
 暮れに、新年は書初めをしてみようと思い立ち家族にも言っておいた。
 漢字一字で今年のモットーなどをしたためることにする。
 本来ならば二日ということなのだろうが、思い切って元旦の朝に筆を持つ。

 選んだ文字は「敬」。

 昨年末から再読していた『本能の力』(戸塚宏 新潮新書)の中に紹介されていた「安詳恭敬」より採ってみた。

 儒教の言葉だという「安詳恭敬」。
 安詳とは、意志を安定させ集中させること。
 恭敬とは、己を知り目標を持つこと。敬は自分より優れた他者の技量を知ることによって生じるという。

 今年も一年その心構えを忘れずに、学びを深めていきたい。

 実はもう一つ気にかかる文字がある。

 横山験也さんの著した『明治人の作法』でも紹介されている大妻コタカ。
 彼女が創立した大妻女子大学の校訓が、「恥を知れ」であることを知ったのは数年前だった。
 改めてこの「恥」という言葉の重さを考えてみたいとも思った。

 今、学校教育のみならず「恥をかかせない」ことが優先されている世の中だが、それはかなり一面的なとらえ方だなと考えるようになった。

 他者に対しての配慮は結局自分にも当てはめられて、何か恥を怖れている社会になってしまったように思う。

 『中庸』に「恥を知るは勇に近し」という一文があるという。
 また『論語』には「恥ありて且つ格る」とある。

 つまり、自分に深く問いかける言葉として「恥を知れ」はある。
 その姿勢がない者は、他者に対する働きかけもできないのである。