すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

祈る高度を上げる

2011年07月15日 | 読書
 先月、内田教授の「祈りと想像力」と題されたブログを読んだとき、わからないことも多く、何かぼやあと考えていただけにすぎなかった。
 http://blog.tatsuru.com/2011/06/18_1251.php

 今週に入ってから、そこで取り上げられていた今月号の「ダ・ヴィンチ」誌上の鼎談を読み、少し飲み込めたような気がする。

 まず、原発に向かって毎日祈っているという、作家橋口いくよ(作品は知らないが)のこの一言は結構重かった。

 祈るしかできないなんて、ひ弱なこと言ってられないんです。

 祈るという行為を軽く考えていたつもりはなかったが、自分の感覚では結局、実際に何も動かない、単に精神的に念じていればいいだけ…といったとらえだったのではないか、と気づかされた。
 そしてそれは、結局自分が今までに真剣に祈ったことがあったかどうかという経験にかかわってくることも見えてくる。
 そりゃあ、祈ったことはある。あの時もあの時もあの時も…。真面目に真剣にひたすらに…。

 しかし、それは自分自身のことやごくごく身近な者のため、結局自分に返ってくることしかなかったのではないかと。
 これには、愕然とする。

 そんな自分だから「祈る」行為について、どこかよそよそしく形式的なものという認識で止まっていたのだろう。

 むろん、自分自身のために祈ることを否定しているわけではない。
 しかし、内田教授のブログを読み直したときに、その行為の本質はこれだという言葉がすうっと入ってくるし、そのことが嬉しい。

 祈りは遠いものをめざす

 めざすものの「遠さ」によって、祈りは強まり、祈る人間を強めるのである。


 人は誰でも多かれ少なかれ禍や厄に巻き込まれる。
 その時に嘆き、悲しむ自分、また苦しみ、妬む自分…そういうマイナスの姿から脱していくためにも、遠いものをめざす練習は必要だろう。それは、祈るという形でも実現できる。

 祈る高度を上げるという自覚さえ持っていれば。

熱い一日をふりかえる

2011年07月14日 | 雑記帳
 朝、職場においてあるパソコンが動かなくなった。
 最近、停止することが幾度となくあり、その度に強制終了としていた。暑さのせいではないと思うが、とうとうディスプレイに信号が送られなくなった。つまり真っ黒な状態である。電源はつくのだが、起動していないのだと思う。
 電源をぬいたり、揺すったりという原始的な救出策をしたあと、一応メーカーのサポートに電話をかけてみるが、案の定、担当に行きつくまでがあまりに長すぎて、心が折れてしまう。

 昼、職場に扇風機4台入れる。
 ほとんどの店で扇風機がない状態であり、朝に見つけた広告に載っていた店にさっそく行ってもらった。一人一台限定という制限、二人で二店廻ってもらい手に入れた。
 少しは環境改善になったか。

 午後、今年度初の校内授業研究会。
 昨年度からグループ協議型に変え、あまり自分が喋らないように、パソコンをつかった記録(エディターというソフトを使って、キーワードや要約を全体に示す)をしている。
 しかし、ウェビングっぽいその形式は協議中には難しいという気がして、今回まったくオリジナルにシンプルな形に組み直してみた。
 グループから上がってきた話題、そしてその後の全体協議のキーワード化だけだが、概ね好評だった。もう少し検討して、今後に生かしたい。

 夕刻、個人パソコンがそのような状態なので、職場に配布されたパソコンに学校ホームページ用のソフトを入れた。しかし、windows7対応になっていないのでグレードアップするために、やむなく2990円で購入する。
 ダウンロードしてデータを組みなおしたが、全部元通りとはいかないようだ。悔しい。

 帰り間際、それにしてもマイパソコンである。この辺りを回っている販売店の方に電話しても不在であり、残念ながら今日はこのまま放置しておくしかないか…それにしても何度となく買い換えたパソコンではあるが、こんな症状は初めてである。およそ3年半、若すぎる寿命である。
 と勝手に決めてしまった。しかし、お前の中にある私にとって大切な財産はなんとかイショクしてもらわなくては困る。それまではもうちょっと息をしていてほしい…願うばかりである。

 熱い一日だったと思う。

温度差の自覚と慎重さ

2011年07月13日 | 読書
 『ちくま』の7月号は読み応えがあった。

 いずれも震災関連なのだが、まず巻頭随筆「テレビ幻魔館」の佐野眞一の文章がいつもに増して熱い。
 「原発事故の温度差」と題されたそれは、関西地区でのエピソード、そして沖縄問題との比較を取り上げる。
 連日、多量の震災・原発報道がされている現状にはあるが、確かにその受けとめ方、行動に「温度差」があり、それは歴史的な背景を探れば深く見えてくることもある。

 佐野はこう書いている。

 人間は自分の生活環境からしか物事を判断できない愚かな動物である。それは、今回の原発事故で私たちが最も学ばなければならないことだったはずである。

 なぜ学べなかったのか。
 そこにはいろいろな理由が考えられるが、やはり思考停止の世界に慣れきったということがある。
 その意味では多少地面が揺さぶられた程度で、人は変わることなどできない。

 
 「寝言戯言」の連載で、保坂和志も復興と原発を取り上げた。

 結論や答だけをほしがる受け身の思考停止状態が日本をこうしたのだ。

 原発問題はやはり象徴的だ。

 かのオシムは、その著書で「日本人は、すべてが整備され自然に解決されていくことに慣れてしまっている」「日本では既に全てが解決されている、だから、人々は全てが解決されることに慣れてしまった」と語った。
 しかし、実は何も「解決」していないということに気づいている日本人は多く、それを閉塞感といった言葉で括ってしまい、見過ごしてきたのが現実ではないか。

 保坂はこう書く。

 ただはっきりしているのは、老朽化したソ連邦がチェルノブイリによって崩壊したように、日本もフクシマによって一度しっかり壊れなければならない。

 それはけして国や組織だけを示しているだけではあるまい。
 正直にいえば、怖いことだが、受けとめなければいけない現実なのだと思う。


 こうした大局的な見方以上に、心に残ったのが、井上理津子というライターの書いた現地ルポ「被災地に本を送る」である。

 知人の塾経営者から依頼され、気仙沼へ本、参考書などを送る活動を始めた筆者の生の現実が詳細に書かれている。
 活動の過程、そこに関わる人々の様子、さらに現地へ赴いて見聞きしたこと。その活動が広がりを見せたから、また一定の成果?を上げたように見えるからこそ、受け取った側の本音は、厳しい。

 「参考書などに関しては、ある意味、善意を示したい人たちの気持ちを満たしてあげるために、僕たちは受け取った側面もあったと思う」

 こういう現実はあるだろうと予想していたが、やはりかと思う。

 わずかな義援金以外何事もできていない自分への言い訳としてではなく、慎重さや温度差の自覚を持って、この後の行動を探している。

情報代謝を続ける

2011年07月12日 | 読書
 続・ちょっと面白い本。
 そうそう、書名は『情報のみかた』(山田奨治 弘文堂)である。

 昨日の正規分布のことに続けて、この本では「ものごとを調べる方法」を大きく二つに分けて、次のように呼んでいる。

 95パーセント法と5パーセント法

 初めて知る言葉で、検索してみても出てこないので、筆者独自の名づけだと思うが、ある面わかりやすい。

 つまり、95パーセント法は全体像を調べる方法、5パーセント法は特別な例について深く調べる方法。そして95パーセントは一定数を抽出するし、5パーセントはほとんどすべてのサンプルを調べる。

 調査の目的によって、方法選択があるわけだが、この二つの考え方というのは、ぼんやり考えれば個人による物事の見方とか嗜好の違いに関わるような気もする。
 だからこそ、筆者のこの文章も、いわば情報処理についての大きな原則なのだと思う。

 ふたつのちがう考え方があって、どちらのこともよく理解し、場合に応じて自由自在に使いこなすことができるようになること

 ふと、授業研究にも応用できないかなという考えが、頭をよぎる。授業を見るときの観点など軽く100はあると思うし、その中から抽出して…5パーセント法の一種に「事例調査」という手法があることも載っていた。実際にやっていることなのかもしれないが、そういう見方をすると幅が広がる気がする。


 その他、興味深く思ったフレーズをメモ的に列記しておく。

 「データの欠損」…集まったデータに欠損がないか疑うこと、もしそれを感じたらどうしてそうなのか考えること、これは重要だ。

 「寿出世双六」…江戸時代の終りごろに作られたすごろくらしいが、当時の職業イメージがわかる。

 「情報代謝」…いわゆるインプット、アウトプットですな。代謝という言葉をつかったところが新鮮。

 こんな拙文でもそのつもりです。

起こりにくいこととの付き合い

2011年07月11日 | 読書
 ちょっと面白い本を読んでいる。

 帯には「小学生から読める大学用テキスト誕生!」と記されている。

 第一章は「ゆうれいの顔はなぜこわいか」。

 この本の際立つ特徴は、本の左上角にいわゆる「美人画」が全ての奇数ページに配置されていることである。パラパラまんが風にページをめくると、その美人画が幽霊画になるという仕組みである。

 モーフィングという手法らしいが、筆者はこの章で「分析と直感」について語っている。小学生から読めると銘うつだけあり、実にわかりやすい文体で、しかも結構本質的なところをついてくる。

 直感が働かないと、分析に進むことができないのです。
 分析は方法を勉強すれば、身に付けることができます。ですが、直感を身に付けるには、たくさんの経験がいります。


 第二章はまた別の面で興味深い。

 「データのばらつきを知る」と題された内容は数量化、数値化について語っている。
 数値化…たとえば評価などの問題で常に念頭にあることだが、常に念頭にあるのは、何のための数値化か、ということである。確かに数値でなければ見えないことは多く、推進しようという立場にあるが、時々振り返り確かめないと、どうも一人歩きするのがこの数値化という奴だ。

 この本の「正規分布」に関することが興味深い。
 正規分布による表し方はよく見るわけだが、その意味づけとはいったいなんだろう。
 正規分布に近いとは何を表すことなのか。
 正規分布の何を見て、何に結びつけるというのか。

 シンプルなゆえに、深く納得してしまう文章に出会う。

 大切なのは、起こりにくいけれども起こること…正規分布でいうすそ野の5%に入る出来事と、どう付き合うかなのです。

 その付き合い方は、言うまでもなく二通りしかない。

 あっさり言うと、無視か徹底か。
 現実はそんなに簡単に割り切れるものではないだろうと、例えば子どもたちへの指導を考えたりする。

 そうしながら、正規分布の5%どころではない、「めったにないけれど、起こるかもしれないこと」と、今私たち日本人は向き合っているという現実にも思いが及ぶ。

経験を盗むための条件

2011年07月10日 | 読書
 この本は以前文庫化したものを読んでいるはず
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/8c0ef5a760e27965d6f314d396fb4bab

 とわかっていても、105円だものと迷わず手にとったのが

 『経験を盗め』(糸井重里 中央公論新社)

 「食べ物のお話」から「祭りのお話」まで全18編、糸井を含めた三人、鼎談という形で話が繰り広げられる。

 ああ確かに読んだと思う回があれば、ちょっと記憶にない回もありで(文庫版は確か何冊かに分けられていたので、読んでいないのが確かにあった)十分に楽しめた。
 稀代の聞き手である糸井と、二人の専門家(というより、こだわりの人)との組み合わせが面白くないわけがなく、繰り返し読むのに価値ある一冊だと思う。

 個々の内容はともかく、改めてこの題名が気になる。

 つまり、経験は盗めるものなのか。

 「盗む=自分のものにする」という解釈でいいと思うが、他者の経験を自分のものにするということは、どういうことか。
 知識を得るという意味も当然含まれるのだろうが、それ以上の段階を指している表現だと思う。

 「口上」と称した前書きに糸井はこう書く。

 さまざまな人々にお会いして、「へえ!」とか「ほう!」とか言っている瞬間瞬間に、ぼくの気持ちは語り手に共振して、彼の経験が「我がこと」のように身体にしみていくのだ。


 共振、身体にしみていく…こうしたいわば単なる理解を超えた受けとめ方は、そんなに簡単にできるものかと思う。

 ものぐさで体力もない自分がエベレスト登山をした人の経験を聴いた場合、海や魚などに全く興味がない人が年老いた漁師の話を聴いた場合…いろいろ考えられるだろうが、もし「盗む」ことができるとすれば、それは聞き手となる者には結構な条件が必要ではないか、そんな気がする。

 第一に、自分に共振できる何か別の経験がある場合ではないか。
 仕事や趣味などを通じて、自分が突きつめた世界のなかで得たこと、感じたこと、意識されずにいたが実は心の底にあったこと…それに触れて共振を呼び起こすのではないか。

 次に、聴く耳を持つことの重要性である。それは姿勢でもあり、技術でもある。その経験の持つ普遍的な部分、もしくは際立つ特異性を引き出してくるという訊きかたができるかという点である。少なくとも、自らの範囲に引っかかりそうな糸口を見つけるところまでは行きたい。

 そのために、頷いたり、盛り上げたり、揺さぶったりと、絶妙とも言うべき技能を糸井は持っている。
 
 こう書いてくると、当然自分の仕事や興味ある分野のなかで、そんなことが出来ているかと自問が始まる。
 それは今の自分にかなり大事なことに思える。
 ちょっと腰を据えて取り組んでみたい気がなっている。

惹きつける声の秘訣

2011年07月08日 | 雑記帳
 ふだんは観ることもないのだが、「声」という言葉に惹かれてテレビのバラエティ番組をつけたら、凄いハイトーンの歌い手がいてちょっとびっくりした。
 その後に、「モテ声」と称して少し妖しい?女性ボイストレーナーが登場し、言うには次の二つのことが大事とのこと。

 声の高さに気を配る

 サ行に気をつけて発音する


 実はちょうどその前日に、職員向けの校内報に「声と学習形態」ということを書いていた。先行実践や資料を持たないまま、つれづれに書いたのだが、そこでの一つの結論はこうだ。

 一斉、全体の指導は「惹きつける声」で

 惹きつける声のために、使いこなす声の要素を挙げてみたが、悲しいかな専門的知識もなく、やや総花的になったと反省している。

 そこで先のボイストレーナーがいう二つは、実に具体的と感じる。

 前者のトーンのことは、よく子どもに対して返事、発表、音読指導などのときに意識して言っていることだろう。しかし、教師自身が実行できているかどうか、これは結構あやしい。
 女性ならばかの「浅倉南」の声の高さが、一番いいとか。うーん、おじさんは納得してしまう。

 後者の「サ行」のことは、ちょうど読んでいた本の中に、あの音響研究の第一人者である鈴木松美氏が言っていたこととぴったり重なる。
 鈴木氏は、相手に自分の意思を伝えるために発声にこんな工夫をしているという。

 「サ・シ・ス・セ・ソ」の発音をきれいにしようというのがモットーでした。

 発音は小学1年生から始まる教科内容ではあるが、それ以降の学年では取り立てて行う指導にはなっていない気がする。自分が知らないだけだろうか。そうした教材開発がもっとあっていいはずだ。

 また教師の「話し方トレーニング」的な内容は時々目にするが、もっと頻度を上げてもいい、具体的にしてみたいことだ。

続・大人になっても忘れたくない

2011年07月07日 | 雑記帳
 先週書いた「大人になっても忘れたくない」という表現が、まだどうも小骨のように引っかかっている。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/57f9d6e35dc1adc882121a8b8ff992b8

 「忘れたくない」…何が不満かというと、「忘れる」と「したくない」の組み合わせだ。

 「したくない」は意志・決断を表すのだから、自覚的いや能動的な行為、例えば「食べる」「走る」「打つ」等々であれば、何の問題もない。
 「食べたくない」「走りたくない」「打ちたくない」等々。

 しかし、「忘れる」というような能動的とはいえない動詞の場合はどうなのか。忘れようとして忘れることもあるだろうが、人は黙っていても忘れる者である。その自然な行為!をくい止める表現が「忘れたくない」のだろうか。

 他に類似した動詞はあるか。

 「眠る」…「眠りたくない」…これは違和感がない。
 「死ぬ」…「死にたくない」…これも…あっ、あっと思う。
 この二つは無理なことなのだ。
 同じように考えれば「忘れたくない」も突き詰めればかなり無理なことに違いない。

 ただし限定があれば生き生きとする。

 「明日の夜までは忘れたくない」
 「自分の国へ帰っても忘れたくない」

 のように。
 「大人」の範囲は曖昧だが、まあ「長い時が経っても」と受け取ろう。

 つまりは、所詮無理な行為を、時間を限定したような表現をすることによって、可能にさせる強い意志をもった言葉が「大人になっても忘れたくない」ということだ。

 しばし待て。
 「なっても」という表現に少し感情が感じられないか。
 本当はなりたくないのになってしまった、仕方のないことだけれどみんなそうなんだよ、あきらめなさい…といったニュアンスを感じるのは私だけか。

 とすれば、相当深いぞこの表現は。
 「大人になるまで覚えておこう」なんていう能天気な考えを、そのまま直接に表現しているわけではない。

 「今、この絵本を読もうとしている君。一つ一つの言葉や絵は、君に知らない世界を見せてくれているだろう。残念なことだけど、時が過ぎ、人はみんな大人っていうものになるけど、その時まで君はその感動を心に抱えていられるかな。世の中の様々な出来事に振り回されて、大切なことを見失っちゃいけないよ。今の気持ちを大事に大事に抱えて、これからの日々を生きていくんだよ。そして、またこの絵本といつの日か出会おう。」

 という意味の「大人になっても忘れたくない」なんでしょうか、これは。

水の山を見上げて

2011年07月06日 | 雑記帳
 先週の研修会で「環境教育」の研究発表を聞きながら、そのプレゼンソフトのテンプレート?のデザインがなかなかではないかと思った。(内容でなくそんなところに目をつけているのか!と叱られそうなので、なかみも良かった、と念のため)
 表紙を見ながら、バックの写真は富士山だろうか鳥海山(秋田富士とも出羽富士とも称される)だろうか、と気になったのだ。

 私たちの住む場所から見ると、それほど富士山に似た容姿を持つのだが、方向が変わるとまるで別人(山だけれど)のように感じるのも確かだ。
 こちらが絶対いい、いやあちらの景観だと、そんな言い合いをしたこともあったなあと思い出した。育った場所から見た姿が、それぞれ一番懐かしいと感じるのは仕方のないことだろう。

 ああ、それにしてもどちらだったろうか。しかし質問でそんなことを訊くのも変だし、終わってから冗談交じりに訊ねるタイミングを逸したことがつくづく残念だ。

 地元で環境教育をテーマにするなら、それは鳥海山がふさわしいだろとは思うが、どうも残雪の形が違うように思う。鳥海山の峰にしては端正すぎるような気がするのだ。

 そんなどうでもいいようなことが頭に残っていたら、ある冊子でこんな衝撃的な!文章を目にした。

 一説に鳥海山頂は世界一の降水量がある場所ではないかといわれる。アマゾンの密林よりも、アジアのモンスーン地帯よりも、鳥海の山頂はさらに多くの水で満たされているのでは…と。

 「断定できるだけの資料こそないが」と断ったうえでの文章ではあるが、大きくかけ離れているとも言えないだろう。
 あのNHK『最後の楽園』でも、暖流(対馬海流)と雨・雪の関係は気候風土に大きな影響をもたらしていたことを語っていた。そうすれば、そういう条件のぴったり重なる位置が、鳥海山にあってもなんの不思議もない。

 ともあれ、そのいわば「水の山」の恩恵をうけて暮らしている多数の生物がいて人間もまさしくその一員だなあと感じるし、そのあたりを発端とした環境教育であれば、また見方が違ってくるかなと考えたりもする。
 エコも節電も大事だが、底の浅いものにしないために幅広く自然を学ぶことも忘れられないだろう。

 環境教育から始めたからには、この程度の締めは必要か…本当のところをもう一つ、「水の山」の恵みの象徴でもある岩牡蠣のもぐり漁解禁が嬉しい。
 もうすぐこちらにも廻ってくるかな。

たっぷり感、ひろがり感

2011年07月05日 | 教育ノート
 先週,町内の4年生が一緒に寝泊まりしながら,様々な活動をして交流を深める「ふるさと体験交流会」を行った。

 そのスナップは,本校ホームページトップで
http://www.yutopia.or.jp/~miwasho/

 引率の一人として二日間子どもたちと暮らしてみると,ふだんの学校では見られないようなことにも出会い,新たに気づくことも少なくない。

 そのひとつ,今回は活動メニューのなかに,制作活動(工作)を取り入れてみたのだが,改めて感じることがあった。

 木切れをたくさん与えて,それをボンドでくっつけながら,グループごとに何かテーマを持ったものを完成させようという活動である。
 スタートは少し迷いも多く,活発な動きとは言えなかったが,途中から全体が「はまった」感じとなり,五つあったどのグループにもそれなりの集中力が見られ,作品もユニークなものが多かった。

 注文した素材は角材が多く,当初ねらっていたイメージと違っていて,事前に心配していた中身だったのに,意外な感じがした。
 一緒に参加した知り合いとそのことを少ししゃべって,次のような理由だろうか,と考えた。

 ・たっぷりと時間がある
 ・たっぷりと材料がある
 ・それぞれのテーマが決まれば,自分の思いを生かしたものが作れる
 ・作り上げていくなかに,遊びの要素,物語の要素などが入ってくる


 こう記すと,「たっぷり感」と「ひろがり感」がポイントだなとわかる。
 日常の学校生活ではなかなか実現できずにいることだと反省させられる。
 その意味でも,こうした機会の貴重さを感じた。

 さて,森の中にレストランとか,様々なスペースを作っていたグループで,ある一人の女の子が,四角く囲んで部屋のようなものを作っていた。
 「これはなに?」と話しかけてみたら,「ヒナンジョ」と答えたのには,笑えるような笑えないような…2011年の夏の始まりである。