すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

遅ればせながらドラマ総括

2013年01月06日 | 雑記帳
 ネットであちこち散歩していたら,「年間ドラマランキング」を見つけた。
 
 そういえば,去年もその表をきっかけに『家政婦のミタ』について駄文を書いていた。
 
 「ミタ」と「仁」というスーパードラマ?が象徴的だった2011に比べ,2012はNHK朝ドラの躍進が特徴的だ。
 そういう自分も「梅ちゃん先生」を土曜の連続版で続けて観ていた。特に何が面白いというわけではないが,あの安心感は独特だった。かなり年寄りじみた感覚になったなあと,しみじみ…。

 さて,マイランキングBest3を考えてみたら,今年は視聴率TOP10の中には一つもないことに気づいた。
 ぱっと思い浮かんだ三つのドラマは次の通り。

 『最後から二番目の恋
 
 『リーガル・ハイ
 
 『ゴーイング・マイホーム


 なんだ,全部フジ系ではないか。
 見ている(と言っても録画が多いが)割合としてフジが圧倒的なのでそうかもしれない。

 しかし,この三つのドラマはどれも良質だったと思う。

 『最後から二番目の恋』は,中年を描くというドラマ設定が上手だし,中井貴一の魅力を最大限に引き出したと思う。
 ただ秋にやったスペシャルは,脚本が今一つでありきたりだった。

 『リーガル・ハイ』は,なんといっても堺雅人の演技が秀逸。好きなタイプの役者とは言えないが,あの滑舌,転調などすごいなあと思った。台詞の躍動感や深みに気づいたのは2,3話目あたりだったが,脚本が古沢良太と知って,思わず納得だった。

 『ゴーイング・マイホーム』。視聴率はずいぶんと低かったらしいが,今年のマイベストはこれかもしれない。画面のつくりも素敵だったし,言葉や間の自然さが,今までのテレビドラマにはあまり見られないものだ。是枝監督と個性的な出演者の息があっていることを感じる作品だった。

 番外として『カエルの女王』(これもフジだ)と『相棒』を挙げておく。『カエルの女王』は,テーマとなっている唄の場面がよかった。『相棒』は,その回によってずいぶんと出来の良し悪しがあるように思う。スペシャルは総じて面白かったが,それでも差を感じた。

 同じ誕生日である松山ケンイチにはとても期待しているが,やはり『平清盛』は正直いただけなかった。設定自体がうけないという根本の理由が大きいのかもしれない。

 その点,今日から始まる今年の大河には期待したい。
 2013マイベスト3には入ってほしい,と勝手に願っている。

下りる豊かさ

2013年01月05日 | 読書
 昨年売れた新書であることは知っていた。しかしある程度内容に予想がつくので,正直なところあまり興味は湧かなかった本だ。

 『下山の思想』(五木寛之 幻冬舎新書)

 昨日立ち寄った大型スーパーの書店で,文庫本2,新書1,単行本1を購入したのだが,新書としてこの本を手にしてしまったのは,きっと元旦の新聞に載っていた橋源一郎と赤坂憲雄の対談が頭に残っていたからだろう。

 記事の大見出しとして「豊かに『下りる』暮らし 草の根実践 大切に」と題された,なかなか考えさせられる内容だった。

 政権がまた交代し,何かまた「右肩上がり」への志向を打ち出しているように思う。結局は経済絡みのことでしか語られない現実の中で,私達はどこを向いたらいいのか,本当に真剣に考えるべき時期に来ている。

 さて,この新書で著者が語る「下山」は,世界全体の歴史を踏まえたレベル,我が国に関わるレベル,個人にとっての暮らしレベルと,表現としては混在しているように見えるが,一貫した「思想」のうえに成り立っている。
 それは,現状を巨視的にとらえ,深く受け入れる姿勢にある。

 その姿勢をどうみるか,賛否は分かれるだろう。
 少なくともこの国のリーダーたちが,そういう方向へ大きく舵をとっていくことは簡単に期待できることではない。
 そこでどうするのか,五木の新書では個人レベルでの心がけのようなことが大半で,やや不満が残る。

 新聞の対談にもどれば,こうした現実認識をもって進むことが大事なのではないか,という言葉がある。
 橋源一郎の言である。

 この社会は経済成長のために「独り」「個」を人々に強制してきました。壮大な実験は,うまくいかなかったんだと思います。人間の能力を見誤った。それは科学との関係でも言えて,やっぱり人間は神じゃなかった。

 「身の丈を知る」ということをもう一度噛みしめながら,今あることを生かしながら,新しい共同体やコミュニティを意識し,つくり直すことが求められている。

 政治の行方とともに,マスコミ,メディアの動きがとても気になり,また不安もある。
 全く背を向けるのも一方法だし,あえてそれを利用しようと策を練るしたたかさもよくないか。

 また,これからは「下山」の連続だ,などというと寂しい気持ちも湧いてくる。
 しかしそうではなくて,いかに豊かで実りある下山にすればいいか工夫しようということなのだ。


 ところで,『下山の思想』の文中に「備えるということ」という項目があって驚いた。
 今年の一字と決めた「備」に何か得られる考えがあるのかと思って読んだ。
 実際は,震災に絡んだ身辺雑記のようなものだったが,その中でまさにこの一言は,象徴的でかなり現実的な戒めとなった。

 本当に必要なときには役に立たないものが,自分の身のまわりにはどれだけあることか。

 モノだけではないのかもしれない。
 「備」は取り揃えておくだけでは駄目であり,点検や補充を意識してこそ,有効であり続ける。

年を越してしまった思いの小ささ

2013年01月04日 | 雑記帳
 ちょっと珍しいな,と思ったのだった。
 12月になれば,必ず自分がしていたことを忘れているのだった。
 忘れていることに気が付いてからも,あまりその気にならなかったのだった。

 何のことかというと,「手帳を買う」こと。

 11月に入れば,ずらりと店頭に並ぶそういうコーナーに目がいかなかったのは,確かに公私共に忙しかったことに違いないし,忙しさも例年以上であったことも否定はしないのだが…。
 「計画好き」を自称してもいいこの自分が,この大事なことを忘れ,関心が薄れるとはどうしたことか。

 心の隅っこにそんな思いを残したまま,年を越した。
 今年のめあてやモットーなどに向き合う時間を持てなかったわけだ。

 箱根駅伝を見ながら,そろそろ腰を上げねばなるまいと,家族恒例の「一字書初め」に臨む。
 なんとしようかな…全く思いつくままいくつかの候補の中から選んだのが「備」という文字。

 広辞苑の冒頭にはこう書かれている。

必要な種類と数を欠けることなく用意する意

 そうなのだ。
 これ自体は別に方向性を示しているわけではない。
 いろいろなことに備える,とよく口にするが,それはしっかり分析されたものなのかどうか。
 つまり「何のために,何が,どのくらい必要なのか」を見極められているのか。

 この齢になれば,「何のために」は自ずとわかる。
 仕事であれ,家庭のことであれ,描かれる像はある程度持っているし,また必ずそうでなければならないという頑なさもそれほど強くない。
 心の持ち様が大きく占めているという実感は年々強くなっている。

 しかしだからと言って,他を巻き込むほどの奔放さで生きようとも思わないし,今まで自分がしてきたことに価値をまったく見いだせないわけでもない。
 言うなれば,自分をどう生かして活動できるか。
 そしてそれはほんの少しであっても周囲や社会を明るく楽しくするものであるか。
 そんなところが結論か。

 そうすれば,量的な意味の「何が,どのくらい必要なのか」という範疇では,「備」は完結しない。
 常に「備」は流され,巡り続けるイメージだ。

 「備」のツールとして手帳を生かせなかったことが続き,徐々に小さくなっていった思いに気づく。

天才の「すがた」に親しむ

2013年01月03日 | 読書
 『人間の建設』(小林秀雄・岡潔 新潮文庫)

 対談だから少しは理解できるのではないかと思ったが,全然歯が立たなかった。
 理解できたのは1割程度かもしれない。

 二人の「歴史的天才」の対談は,「有り体にいえば雑談である」と書かれてあるが,そのレベルについていける人は,この国で何パーセントいることか。
 この文庫本の解説は,かの茂木健一郎であるが,彼はそのなかの一人であるようで,なかなか面白い解説を書いている。
 そしてこの表現は,実に妬ましくなる。

 時おり声に出して読んでみる。実にすがすがしい気分になる。

 こういう境地に到るには,相当の知識,教養が必要なんだろうなと正直に思う。
 ただ,少ないけれど頭に残り心に入ってくる文章から私にだって想像できることはある。

 この二人は,かなりの「大物」だ。

 何を今さらと言うなかれ。
 ここでいう「大物」には,自分なりの定義がある。
 世界や存在を大きく見ているということだ。つまり,考えの幅がとてつもなく広い。

 人類の進化といった話題に限らず,「情緒」のこと,「一」のこと,「時間」のこと…想像が追いついていかないのは恥ずかしい限りだが,どこまでも広がる会話に開放感を感ずることはできた。


 一つ,とてもわかりやすく,心にすとんと落ちたことをメモしておこう。

 最後に「素読教育」に触れた小林秀雄の言葉だ。
 古典の暗誦の教育性を見事に表しているだけでなく,他の事象についても深く本質をついている。

 「すがた」には親しませるということが出来るだけで,「すがた」を理解させることはできない。とすれば,「すがた」教育の方法は,素読的方法以外には理論上ないはずなのです。

 折にふれてこの本も声に出して読んでみようと思う。

強い風を感じて走れ

2013年01月02日 | 読書
 強風の箱根駅伝往路だった。

 年末から元旦にかけて関西方面に家族と旅行に出かけるとき,バッグに入れた文庫本が2冊。
 そのうちの一つが箱根駅伝を題材とした小説で,ぜひ駅伝をテレビでみる前に読み切ってしまいたいと思っていた。
 650ページを超す分量で,結局読了したのがスタート1時間前,自宅での朝風呂の中だった。

 内容は長距離経験者の少ない10名のメンバーで箱根を目指すという,いわばマンガチックな設定だが,なかなか面白いところもあった。
 売れっ子作家の有名な小説なので,知っている人も多いことだろう。

 それにしてもこの題名かと,今日のレースと若干意味合いは異なるがあまりの偶然にちょっと驚いた。

 『風が強く吹いている』(三浦しをん 新潮文庫)

 天賦の才能と走ることへの情熱を持つ主人公「走(かける)」は,それゆえの葛藤や軋轢を抱えたまま大学進学し,「清瀬」と出会うことで成長を遂げていく。
 この物語の肝となるのは,長距離や駅伝を走るために必要なことが「速さ」ではなく「強さ」ということには違いない。しかし,そのようなあり方は結構言い古されていて,具体的に「強さ」がどういうことか示されている部分こそが興味深い。

 主人公「走」が語ったのは次のことだ。

 俺に欠けていたのは,言葉だ。

 思いを言葉で表現すること,自分の心にある考えや感情をしっかり見つめて言語化すること…作者はそれこそ強さだと認識していて,他の駅伝メンバーが走っている時にそれぞれをクローズアップし語らせていることも,その証しだろう。

 これは今まで何度か書いてきた,スポーツ選手と言葉の関わりと深く重なり合っている。
 今さらながらに教育としての「言語活動」は何のためかを振り返ったりする。


 強風の中で疾走する一人一人の選手は,どんなことを思っていたのだろう。
 サポートする部員たちの思いは,どれほどのレベルにあるのだろうか。
 画面には映らないドラマも結構あるだろうな…今日はいつもより,想像力を膨らましてみた気がする。

 明日の復路も楽しみたい。

 そして何より,明日のレースでは以前勤めた学校でひたすらマラソンに励んでいた子が,ある大学の7区走者としてエントリーされている。

 多くの人と一緒に雪深い故郷から応援したい。