すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

腸に届く書物を待つ

2013年01月18日 | 雑記帳
 朝の通勤時間帯のラジオで紹介された本があった。

 『脳はバカ、腸はかしこい』(藤田紘一郎著)  

 ドーパミンやセロトニンは腸で作られて,そのうちわずか2パーセントしか脳に供給されない,というような話が聞こえてきて,思わずナニナニという感じになった。

 著者へのインタビューを聴いていて,なるほどなあと思うことがあった。
 脳は欲求に支配されて食べたがるけれど、腸は過度のものを受け付けず下痢したり吐いたりするという件は、言われてみれば確かにその通りだ。
 
 よく「からだは正直だ」という言い方をしたりするが,それを利口と置き換えてもいいのかもしれない。結局のところ,多くの場合安静にすれば復活するのだから。

 これはひょっとしたら個人の身体に限らず、人間社会でもそうではないかと勝手に連想が湧いてくる。
 
 政治,経済の世界であっても,脳にあたる?方々の欲求だけで体は振り回されるけど,腸のなかはきちんと消化できずに滞っていたり,垂れ流されてしまったり……。ここでも身の丈にあうものが求められているのに,バランスを保てないでいる。
 まあ少し安静していることを心がけたら,ある程度収まるんではないか……というのは楽観視すぎるだろうか。

 ところで,この著者に聞き覚えがあって,ネットで調べたら,ああそうだったと思い出した。
 自分の腸の中でサナダムシを飼っていた!研究者でした。キヨミちゃんと命名までしたことが,研究者魂を感じさせます。

 この本,ネットを通して申し込んだが,届くまで数日かかるらしい。

 いいではないか。

 早くと脳は欲求している馬鹿者だが,腸はのんびり構えているお利口さんである。
 きっと,腸に届くような書物だと想像する。

国とかかわる自分を見つめながら

2013年01月17日 | 読書
 『日本の選択 あなたはどちらを選びますか?』(池上彰 角川oneテーマ21)

 昨年12月の総選挙前に発刊された新書である。
 消費税から社会保障,教育問題,原発……全部で10章立て。いわゆる日本の論点とされていることを,池上さんらしくわかりやすく示している。

 ここに挙げられている問題は様々な面で結びつきが強い,という当然のことを再認識したし,そういうスタンスを持って自分の生活を見つめたり,投票したりすることを考えさせられた。

 端的にいえるのは,「原発の今後」と「がれきの広域処理」の問題だ。
 原発ゼロを目指すことに明確に賛同するならば,広域処理の受け入れを拒むことは矛盾点を抱えると思う。
 科学的な判断はどうか(おそらくそこでも論は分かれるのだろう),場所選定に関わる政治的な誘導の有無はないか,等々予想されることはあるのだけれど,著者が書いたこの点には深く納得する。

 被災地のがれきさえ受け入れられない国民に,五十基もの原発をゼロにすることが可能とはとても思えません。

 「どちらを選びますか?」と問われて決めるべきは,個別の問題ではなく,そこに関わる選択のつながりをしっかり見据え,自分はどこへ向かおうとしているかを考えることだ。



 『下村博文の教育立国論』(下村博文 河出書房新社)

 本文の中には「教育立国」という言葉は見つけられなかった。
 しかしこの内容からすると,題名としてはふさわしい気がする。教育改革をするために議員となり,様々な提案をし,「政治の最大の役割」と言い切る著者である。

 自らの境遇を糧にしながら,教育格差の是正を訴える点には共鳴するものがある。教育特区を手始めに「新しい学校」の設立を計画立てている点も納得できた。

 しかし,である。
 政治家が「○○立国」を言い出し,政策として実現を目指して動いたときに,それにまとわり,絡みつく世間の目や声を考えたとき,「教育」は言い出すにふさわしいのか,と根本的な疑問を感じた。

 画一的な教育からの脱皮を目指して,多くの制度改善や抜本的な改革に論が割かれている。そのいちいちについて判断することは私には難しいし,現状と比較するには想像力がいる。

 ただ読んでいて,子どもの育つ社会や地域環境を寸断し,変質させてきた責任の中心は政治ではなかったかという思いが浮かび,その点をあまり省みられていないことに,やはり危機感を持つ。
 自分も含めてそこに誘導された「国民」は,著者が思うほど成熟していないと思う。

 文科省大臣として腕を奮うことになるだろう。
 この本の中身と照らし合わせて、注視したい。

「いつも通りに」と言えないマスクマン

2013年01月16日 | 教育ノート
 家庭の事情があったり、急な通院があったりで、職員数が足りなくなり、午前中の丸々4時間を2年生の補充をすることになった。
 4年ほど前にいた山間部の小さな学校では、何度かあったような気もするが、前任校では記憶にない。この学校でも担任外の教諭が複数いるので、今まで単発で入ることはあったが、貼り付けのような形で入るのは初めてのことだ。
 この先もあまりないと思うので、記念に?メモしておこう。

 基本は学級担任の予定した通りで行う・
 1時間目算数「大きな数」の導入、教科書を使って進めてくれとのことである。
 2時間目国語「漢字テスト」。全校で実施しているもの、全員できたら読書という指示だ。
 3時間目生活「雪遊び」か「かるた」。
 4時間目国語「だれかしら」という教科書に載っている詩の導入、二時間扱い中の一時間目をしてくれという。

 補充に入ることを昨日の午後3時過ぎに聴いた。しかも、体調が今一つである。それでも、「大きな数」だけはモノが必要だなと思い、1円玉を模したプリントを印刷し、何枚か作成しながら構想を練る。

 で、本日。体調は最悪である。
 マスクは離せない。声もかなりがらがらしてきた。
 うがい薬とサプリで気合いを入れて臨む。
 
 この学級はわずか15人と、校内でも極端に児童数が少ないので、その面ではまあまあ扱いやすいが、発達段階から考えると、担任外が来たらまあずいぶんとうるさくなるだろうと予想した。
 案の定、そんな雰囲気が見えたので、
「先生は今、声が出にくいので、何度も同じことは言いません」
とマスク越しに、静かに語ってみせるところからスタートした。

 算数。
 昨日作っておいた1円玉がたくさん並んでいるシートを見せ、いくらぐらいあるか予想させる。
 3人グループにして、「何個あるか、どんなふうにしたらわかりやすく見えるか」を課題に、作業させる。5つのグループのうち100のまとまりに目を付けたのはわずか1グループだけだった。
 それぞれのグループのやり方を取り上げながら、100のまとまりをつくることを確かめる。
 教科書を使って、100のまとまり、そして1000のまとまりについて指や鉛筆で作業させながら、理解させる。

 漢字テスト。
 全員終わって、残った時間が15分。辞典に興味を持ち始めた子が出てきたというので、「辞典クイズ」をしてみる。
「辞典には何が載っているの?」
「黒板に『意味』を書くので、なんという言葉の意味かあててごらん。」
 ノートに「①あ」「②い」…というように、頭文字だけはヒントとして掲げた。
 単純だが、答え合わせは結構盛り上がった。

 生活。
 雪も細かく降っているし、私自身の体調もすぐれないので、「カルタ」にすることに…。しかし子どもたちは少し不満をくすぶらせている。
 どうしたら、カルタだけで一時間持たせられるか。
 用意されていたのは、カルタが5つ。しかも全部種類の違うものだ。
 そこでひらめく。
 算数で作った5グループをもう一度つくり、一人は読み手、残った二人で対戦する形とする。一回は5分間。もちろんたくさん札を取った子が勝ち。その子は黒板に来て自分の名前を書く。
 この形を繰り返していくわけだが、カルタをそのままに、場所だけ移動して2回戦、3回戦を行うこととする。つまり、三度とも違う種類のカルタを行うという設定である。
 これは目先が変わり、飽きを見せる子もいなかった。
 最後はグループ対抗。リレー方式にしたら盛り上がったのはいうまでもない。

 国語。
「だれかしら」は与田準一の作品だ。視写から始める。
 改行、マス明け、句読点…正確に視写することは、これほどまでに難しいのかよくわかる。
 半分(10行程度)書けた段階でチェックしてみると、正確なのは2名。すばやく直させて後半。ここで一発合格できたのも半数ほどである。
 最後は、暗唱までのステップ練習である。声があまり出せないので、指示棒代わりの鉛筆でリードしていく。
 散漫な子を繰り返しによって集中させることに力を注ぐ。
 最後は暗唱できるようになったが、自己採点は70点ほどか。

 マスクをしての半日授業は、ちょっとつらい。

 担任が「いつも通りに」と指示を出せることの偉大さ!を改めて感じる。

身の丈にあった仕事や出会い

2013年01月14日 | 読書
 そんなに数多く読んでいないが,結構気に入っている作家である。
 静謐な文体とでも言えばいいだろうか。
 この女性誌に連載されたというエッセイ集でも,十分に感じることができた。

 『カラーひよことコーヒー豆』(小川洋子 小学館文庫)


 雑誌のターゲットがどのような層なのかよくわからないが,「仕事」に関わった文章が多いようだ。自らの小説づくりにも触れて,次のように断言したところが興味深い。

 小説を書く時,登場人物の職業を何にするかは,最も重要な問題になる。仕事さえはっきりすれば,自然とその人の人格や人生も見えてくる。

 人と仕事の関係づけは一律ではないが,どうしても切り離せないことと断言しているような気がする。
 多くの人の働く姿に元気づけられ,励まされてきたという作者は,こんなふうに吐露している。

 働く人,と聞いて一番に私が連想するのは,やはり母だろうか。

 職業を持たず一家の主婦であった母の姿が,この作家の表現の素地を作っているのかもしれないと想像させる。
 平凡に見える生活に潜む感情を丁寧に引き出す,掘り起こして磨きにかけるような作業のイメージが湧いた。

 「料理の喜び」と題した一文も,生活環境,食材や場面,身近にいる人,その時の感情など細かく見つめているからこそ,シンプルに料理の持つ本質に迫っていると感じた。


 「人と人が出会う手順」と題された内容に,唸ってしまった。

 大学時代に同好の仲間を募ろうとすれば,掲示板にポスターを貼るしかなかったという思い出から,現在のネット時代の人の探し方に文を進めている。そして海外旅行でのガイドとの出会いで締めくくられている。
 こんなふうに書いている。

 インターネットの発達した現代では,どれほど特殊な趣味を持った人でも,たやすく共感し合える相手を探すことができる。それはたぶん,世の中のありようを変えるのに,十分な革新である。

 著者はそう思いつつ,それに与しない出会いを求めているようだ。

 出会いそのものに必然はない。しかし,必然と感じる偶然によって出会いが生じることの方が,きっと豊かな実りを連想させる。
 それは,ネットを通して出来ないことではないが,おそらく一枚の朽ちたポスターを見つけ直接的に出会っていた時代の方が,人間の背丈にあっているのではないか,相応しい間隔の取り方ではないか,と思う。著者もそんなことを考えているのではないだろうか。

畳半畳の仕事に学ぶ

2013年01月13日 | 雑記帳
 昨夜,近所で「古典芸能を楽しむ会」というイベントがあった。
 メインは落語家の古今亭文菊。ここ数年継続してこの地に足を運んでいる。
 生で観るのは初めてだが,さすがに昨年何十人かを越して真打ちに抜擢されただけの力量がある。特に顔の表情のつくりが秀逸だなと思った。

 さて,もう一人ステージにたったのは,櫻川七好という方。

 幇間(ほうかん),俗にいう「太鼓持ち」である。

 花柳界におけるお座敷遊びと言われても,まったく想像の世界でしかないが,そういう職業があることについて知識は持っていた。落語の中にもよく登場する。
 昨夜の話によると,全盛期には数百人がそれを生業にしていたが,現在は5名という。
 それでも成り立っているということ自体,なかなか深い世界だなと感じた。

 芸としては,踊り,都都逸,(こういう分野分けではないと思うが)独り芝居,パントマイムの類である。
 年季を踏んだ芸能として味わいがあるものだった。

 幇間の芸の大きな特徴は,動く場が狭く限定されているということである。
 「畳半畳」と話していたが,実際それは無理としても,そこを基にしていることはすぐに見て取れた。
 飲食の伴うお座敷であるという前提を踏まえて,長い年月をかけて工夫されてきたものだろう。

 幇間とは主役ではなく,あくまでお客や芸者を引き立て,取り持つ役である。そこに徹するということは,かなりのセンスと覚悟が必要だろうと想像する。
 こんなことを言って,笑いを誘った。

 「バカでは,できない。利口は,やらない」

 調べてみたら,「幇間」にはこういう意味があった。なかなか深いぞ。

 「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。
 この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。


 「太鼓持ち」という言い方は軽蔑を含んだニュアンスがあった。賑わいのあった当時のなかみを想像すればやむを得ないことだ。

 しかし,今その仕事に名づけられた幇間という意味を知れば,実生活のなかでもそういう役割を嫌がらず引き受ける人がもっといてもよくないか,とそんな気もしてくる。

「海炭市」の人々に寄り添う

2013年01月12日 | 読書
 『海炭市叙景』(佐藤泰志 小学館文庫)

 今まで読んだことはなかったが、書評などを目にしていたので気になっていた作家の一人だった。
 この小説は、函館がモデルとなっている「海炭市」を舞台として、市井の人々を連続に描いた群像劇とでも言えばいいのだろうか。

 それにしても、冒頭の「まだ若い廃墟」と題された話は切ない。貧困にあえぐ兄妹が一緒に初日の出を見に「山」へロープウェイで向い、先に麓まで降りた妹が、歩いて下山してくる兄を待つというストーリーだが(結局、兄は遭難して死ぬ)、なんとも正月にふさわしい(苦!)内容だと、こちらまで暗くなってしまった。

 しかし、そんな内容にも関わらず,人物の心象風景を描くのがうまいというか、視点変換を使った語りに巧みに誘導されて、その作品世界にぐいぐいと引きこまれた。
 20年以上前に、その当時の状況設定で書かれたものとは思えないほど臨場感があるのは、いわば日常にひそむ人間性の根っこの部分がよくわかっているからだと思う。

 80年代半ばから後半までが、地方都市や農村にとって大きな変換を目の当たりにした時期だったことを、今さらながらに感ずる。そういう場面を鮮やかに切りとって見せている。
 世間を騒がすような大きな事件、事故を描かれていない。またミステリーのような仕掛けが組まれているわけではない。
 人物の淡々として流れる日常が、何か大きなことと対比されるように淡々と書き込まれているような印象だ。

 「大きなこと」と書いて思い出すのは、確か山田洋次監督の『故郷』という映画で、井川比佐志が妻倍賞千恵子に語る台詞だ。
 単純に「高度経済成長」と言い換えていいかもしれないが、それ以上に人間の持つ欲や業のような正体の知れない響きも聞こえてくるようだった。

 その意味でも、第二章の最初「まっとうな男」は強烈だ。
 離職し職業訓練校に通う寛二は、五十歳を越えた一番の年長者である。週末で自宅に帰るときに、スピードオーバーで警察の覆面パトカーに捕まる。
 寛二はビールを飲んで運転していた。そのことについての罪の意識はあまりない。
 それより、見通しのいい直線道路で制限速度を守り、追い越す車を待っているような警察のやり方に腹を立てる。

 「悪いことはしていない」「盗んでいない」……

 それが法律だから、という理由で捕まえられることを私達は単純に認め過ぎてはいないか…ふとそんな気持ちが湧いてくる。犯罪擁護のつもりはないが、やはりどこか侵食され始めている。

 続く作品の『ネコを抱いた婆さん』の姿に憧れる。
 道路建設のために立ち退きを要求されるが、じっとその場所で豚を飼う仕事に専念している。それを見守る家族の姿にも矜持を感じた。

 いつの時代も、偏屈に見える人の言葉には真実が宿っているものだ、ということに気づかされる。

冷え込む廊下を廻りながら

2013年01月11日 | 雑記帳
 明日からの三連休が明けると、三学期の始業式。
 今日はほとんどの職員が出勤し、会議をしたり、諸準備を進めたりした。
 帰り間際に教室を廻ってみる。

 どの教室の黒板にも、それぞれメッセージが板書されている。
 学級の目標を改めて繰り返したり、気持ちを新たに頑張っていこうという方向を示したりと、ある意味で担任の個性的な文字と文句がそこにはある。

 少し羨ましい気持ちで、自分なら今どんなことをどんなふうに書くかな?と廊下を歩きながら考えてみた。

 書く内容については、三学期だしやはり子どもの顔を浮かべないといけないが、書く方法ならいくつかアイデアは出るかな…。


 例えば、黒板いっぱいに大きく太く一文字の漢字を書く。

 おおおうっと思うはずだ。
 仮に、「三」はどうだろうか。
 これをもとに、「三」の話から学級活動を始める。中身は「三学期」の三から始めて…いろいろとあるだろう。


 例えば、黒板のどこかに見えないほど小さい字で伝えたいことを書いておく。

 見つけた子を誉めるところから、話していく。
「小さなことに気をつける」ことの大切さから始めてみる。


 例えば、「今年初めての手紙を君へ」とでも一行書いておく。そして個々の机の中にカードをしのばせる。

 そこには、個々へあてた「よさ」と「願い」を書き込んでおけたらいい。
 その返答を、別のカードに書かせることから最初の活動を始めてもいい。


 アイデアはまだまだ出そうな気がする。
 こういう考えを廻らすのは、やはり楽しい。

 雪は止まずに降り続く。
 数日続いている真冬日のせいで,がっしりと廊下は冷え込んでいる。
 子どもたちの声が響き渡るのを待っている空間だ。

三点リーダを忘れないで

2013年01月10日 | 雑記帳
 ちょっとびっくりした発言だった。

 「国語は,文学を読める子どもを育てるのがねらいだと思います」

 うーん,今聞くと逆に新鮮に思えてきたりする。

 きっと,その方の本音なのだと思う。
 その願い自体はもちろん批判されるべきではないだろう。
 しかし,そういう考えを持つ方が陥りやすいのは,言葉をしっかり見ないということでもある。

 「先ほど発表した方の資料に『言葉は心』というものがありました。私の学校でもまさしく,その『言葉は心』という考えで進めております。」

 このようなこともおっしゃったのだが,実はその発表資料には「言葉は心…」と書かれてあるのだ。

 「言葉は心」と「言葉は心…」,この違いは大きいのではないか。
 そして見落としてはいけないことではないか。
 表記に込めた大事な「心」を感ずることができないのではないか。

 自信のなさからか「…」を多用してしまう私などは,そんなことで文学を語れるか,などと穿った見方をしてしまい,そういった方々の願いの危なさを感じてしまうのである。


 蛇年の蛇足二つ。

 ○「三点リーダ」は「……」と二つ続けるのが一般的な用法だそうである。

 ○ある漫画家の発見。芥川龍之介は,死に近づくにつれて,文章の中に「…」が増えていったそうである。

対話についての気がかり

2013年01月09日 | 雑記帳
 昨日参加した研修会で,「対話」を取り上げた実践発表があった。

 『「対話」を生かした言語活動の充実』ということで,まあ大雑把にいってしまえば,学習過程の中にペアやグループ形態を取り入れた話し合いを持つという形である。

 対象学年が低学年,記録は1年生の学級であり,それが興味をひく。
 手順として(ペアにおいて),「相手の考えを受け止め復唱」→「復唱+質問・感想」があった。
 そして具体的な場面として物語文の読み取りで,想像したことを「対話」する様子がビデオをつかって映し出された。

 二人が向き合い,一方が自分の書いた文を読み上げる。そうするともう一方の子が,こんなふうに言う。

 「○○さんは,~~~~~~と思ったんですね。ぼくがキャッチしたことばは,~~~~~~ということでした。ぼくは,そこを読んで・・・・・・・と思いました。」

 2組の子が映し出されたが,一年生としては非常にスムーズなやりとりで,このパターンの積み重ねが見えるようだった。

 しかし,である。
 どうにも違和感が湧いてくる。

 復唱させるという意図はわかる。そのことによって「聞く力」が鍛えられることも確かだろう。
 けれど,少なくともビデオを見る限りでは,子どもは相手の言うことを間違えずに覚えることに集中していて,それに精一杯なのである。「キャッチ(自分の心に残ったという意)」した文章の一部分も,反応の速さを考えると恣意的のような気もする。

 同様のことを指摘なさった先輩の先生がおられた。
 形式の重要性は否定しないがそれにとらわれずに子どもを見とって柔軟に指導していく,といういわば王道的な助言であったと思う。
 もちろん,現場の態勢としてそうなっていないとは思わないが,陥りやすい点であることは確かだ。

 もう一点,この発表を聞きながら,考えていたのは,「低学年は表現したいものだ」ということだった。
 その特性をそった段階,その意欲を生かす方法がもっと考えられていい。

 「対話」という言葉が流行のように使われはじめ,ビックワードになっていけばいくほど,画一的になっていく危険性には目を向けていきたい。

 もう一つ,とても気になった発言があったが,自分の中で温めて後日に。

聞かせ,聴き入れる人

2013年01月07日 | 読書
 年越し旅行を控えていたこともあり、あまりに慌ただしかったので、年末に読んだ二冊の教育書について感じたことを記す余裕がなかった。
改めて、ここに残しておきたい。

 『声の復権~教室に読み聞かせを!』(有働玲子 明治図書)

 以前読んだのかなあと思っていたが、違っていた。
 この本は、広義としての「読み聞かせ」に関わる実践書として、よくまとめられている。
 自分としても読み聞かせをある程度してきたつもりだが、読み聞かせから国語科実践へという流れは、あまり意識しなかったことなので、紹介されている実践例は貴重だった。
 「比べ読み」はかなり一般的になってきているが、この著の発刊された当時(2001)はどうだったんだろう。
読み聞かせという手法を取り入れれば、「比べ読み」はかなり汎用性の高いものになるという単純なことに気づいた。


 『「ファシリテーション・グラフィック」入門』(藤原友和 明治図書)

 夏の研修会で購入したのだが、きちんと読んでいなかった本だ。
 ファシリテーション・グラフィック(FG)について興味はあるが、自分じゃできないだろうなあ、というあきらめが強い。この本を読みきっても、意欲がそんなに上がってもこない。
 といって、内容がけして悪いわけではない。

 「議論を変えるFG・10の機能」
 「誰でも使えるFGスキル」
 「授業で使えるFGスキル」
 「FGで進める校内研修12カ月」


という章立ては、授業・校内という言葉がなければ、完全にビジネス書といってもいい構成だ。十分に役立ち感は伝わってきた。
 写真中心に実例が豊富なので、こんな自分の頭にも残るそれらが、きっといつか姿を見せてくれるのではないかと期待している。


 さて、この二つを並べたのは偶然であるが、ある点で非常に面白いことに気づいた。
 「聞かせる人としての教師」と「聴き入れる人としての教師」について語っている気がしたのだ。

 読み物を媒介にしてあることを聞かせるのは、昔から教師の役割であった。スピーカーという言葉は一面ではよくないイメージはあるが、正しい形容でもある。
 一方、話し合いを聴き取り、文字情報等に視覚化するという作業は、調整という役割を前面に出しながら、的確に聴き入れること抜きに成立しない。いわばレコーダー的機能だ。それに視覚的再生が加わる。

 ありきたりの結論だが、使っていないと性能はにぶくなるだろう。
 それは、本体が旧式であっても同じことだ。