すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

長老たちの眼に学ぶ

2016年09月16日 | 読書
 『虫眼とアニ眼』(養老孟司・宮崎駿  新潮文庫)

 もはや日本の長老と呼んでもいい二人の対談。
 8年前の発刊ではあるが、古さは感じられず実に刺激的である。

 タイプの異なる二つの知性の出会いによって、お互いの尖がっている部分がより際立つ気がした。



◆平たく言えば、感性とは、「なんか違うぞ」って変化がわかることと言っていいんじゃないだろうか。で、現代の人間、とくに子どもたちが、いまどこにその差異を見ているのかを考えると、結局人間関係の中にそれを見ちゃっているんですね。(養老)


 人間にばかり関心が向き過ぎた世の中を嘆く。
 イジメや差別は昔からあったけれど、結局そこから逃れられなくなっているのは、私たちが全て人間関係の中の解決に終始しているからだ。

 それは公的な施策や措置、対策にも見られるわけだが、明らかに過剰であり、それが人間を良くしていく方向とはけして思えない。
 人生が素晴らしいとか、自分以外の様々な存在が好きだとか、そんな意識を育てているようには見えない。
 これ以上、人間関係に縛られるようなことを続けてどうなるのか。


◆あまり思い過ぎるよりも、目の前の気に入った散歩道が見つかれば、それが五十メートルしかなくても、けっこう機嫌よく生きられる。生き方のコツとしてぼくはそうだと思うようになってきた。(宮崎)


 「目の前の気に入った散歩道」を見つけるような教育がなされているか、ということだ。
 グローバル化が進み、キャリア教育が叫ばれていて、それがいかにも「生き方」に結びつくように思われているが、個々のお気に入りははたして担保されているのかどうか。

 「先の見えない」ことは、いつの時代も誰しも同じであって、刹那的とは言わないまでも、まずは教育の自由度を高め、上機嫌が拡がる雰囲気を作るべきだろう。

 全ての大人たち、特に教育に携わる関係者が真剣に考えなければいけないのは、英語や道徳のことではなく、次の自覚とそれを踏まえた行動化だ。


◆生きる力なんて、子どもははじめから持っている。それをわざわざ、ああでもない、こうでもないと、ていねいに殺しているのが、大人なのである。(養老)

「白鵬」連れて国技館②

2016年09月14日 | 読書
『白鵬のメンタル』(内藤堅志  講談社+α新書)


 力士が自分の型や武器を発揮するためには、しっかり考えなければいけないという当たり前のことを言っているに過ぎない。ただ白鵬に限らず「成功者」たちはそのための努力、工夫を怠っていない。そのための言語化は有効であると改めて感じた。今回の休場は地方巡業の参加強行も一つの理由だが、それも決断だ。


 それだけの努力を重ねてきた白鵬であっても迷いはある。この新書の一節「白鵬は、相撲においても『後の先』(受けて立つこと)を重視しています」は、そうであってほしいが、ここ1年ぐらいは素人が見てもそう思えない取組もあり、苦渋は続いている。横綱は、重圧が益々高くなるのが「宿命」。覚悟は相当なものだ。


 テレビの前の日本人横綱を期待する多くの目。国技館で観戦者たちはその典型である。従って初日の「あの敗戦」の(そしておそらく昨日の敗戦も)落胆する空気は独特だった。その理由はもはや「流れ」をつくりだせないことにあるのは明らかである。しかしこれほどの応援をうけ、これほど裏切られるのも珍しい。


 さて、国技館初体験の感想。滞在3時間半ぐらいであり、館内を巡る余裕はなかった。ただ目立ったのは外国人の多さである。観光としては当然ありだが、どんな感覚で見ているのだろうか。格闘技としての面白さというより、伝統ある様式美のような目で見るのかもしれない。そう考えると、見る側の嗜みも大事だ。



 観客のかけ声で一番客席が湧いたのは、本県出身の豪風に対する一声。「タケカゼーーーーー」という語尾の長さに拍手があった。また家族連れが嘉風に対して小さな横断幕を作り、懸命にかけ声を送っていた。その期待を受けて嘉風は金星。嘉風以上にその一家に対する観客の拍手が大きく、ライブの良さを満喫した。

「白鵬」連れて国技館➀

2016年09月13日 | 読書
 『白鵬のメンタル』(内藤堅志  講談社+α新書)


 初めての大相撲観戦、国技館行きを決めたので、何か「予習」をしようと考え、取ったのがこの新書。読み始めようとしたとたんに「白鵬休場」の報道があった。それはないよと思った。間違いなく現役最強力士の姿を見られないとは…。楽しみはいくらか減じたが、それに勝るいくつかの楽しみはあると勇んで両国へ。



 秋場所初日、満員御礼。初めての聖地にはたくさんの発見があったが、それはさておき、取組は波乱の幕開けだった。大相撲を見ている方なら、誰もが注目している稀勢の里。タクシーの運転手、夕食時の隣席の人たち、翌日の寄席での落語のマクラ…頻繁にその敗戦が語られた。それはまさしく「メンタル」だった。


 著者はスポーツトレーナーとして10年以上も白鵬を見続け、実際にその能力開発に携わっている。当然、「白鵬礼賛」的な内容であることは否めない。しかし、その点を割り引いても、なるほどと納得できた。この新書の副題は「人生が10倍大きくなる『流れ』の構造」。まさに様々な勝負を決する「流れ」が語られている。


 「流れ」とは実に平凡な言葉である。ここで言う流れとは身を任せたり反発したりする外的なことではなく、あくまで内的な自分で作り出す流れを指す。いうなれば、流れを自ら作り出せる者が才能を育て、成功することが結論だ。そのための手立てが白鵬を例に述べられている。メンタルを強くする流れのことだ。


 「感覚を言語化すること」は間違いなく大きなポイントだ。もちろん前提は多いが、「流れ」のなかでは最も大きいのではないか。私たちが力士に持つイメージとは距離があるかもしれない。しかし勝者に必要な「型」や「武器」も、言語化によって意識づけられ、稽古の習慣化によって技能となる。土俵で結果が出る。

土俵を見る目が変わる

2016年09月11日 | 読書
 『女はなぜ土俵にあがれないのか』(内館牧子  幻冬舎新書)

 この新書が出たのは、ほぼ10年前。
 この話題が出た経緯も、その後の相撲界のいろいろな騒動も結構知っているつもりだ。自分自身、ここ数年相撲への興味が高まっているからということもある。
 著者が大学院で学んだことを基にしているので、正直やや難解な点もあったが、それ以上に興味深い箇所が多かった。

 さて、この本のキーワードというか、結論といってもよい言葉は1つである。

 「結界」


 思えば、この言葉を強く意識したのは今から20年ぐらい前だったろうか。
 野口芳宏先生が秋田大学の夏季集中講座にいらして、学生に交じって出席させていただいたときだ。
 「紙芝居」の講座であった。紙芝居の舞台について「結界」と説明されたことが強く印象づけられた。



 「結界」は、宗教上で強く意味を持つことと思うが、この意識は私たちの生活全般に深く沁み込んでいる歴史がある。
 それを知らず知らず、いや知っていても単純に(例えば、グローバルなどという言葉に惑わされて)壊してしまっている現状はないか。
 そんな危機感を抱かせる著でもあった。

 書名に対する著者の考えは繰り返し述べられているが、その背景となる、いわば「相撲ミニ知識」のようなことが実に面白かった。
 そして、それらは相撲の本質に迫っているものだと思わせてもくれた。
 いくつか紹介する。

◆諸説はあるとはいえ、「舞」という字がつく格闘技なのである。

◆「四股名」と書くが、本来は「醜名」なのである。

◆かつて、土俵入りは最強の大関だけができるものであり、その資格を持つ最強の大関を「横綱」と言った。(略)「資格」の名称ではなく、最高の「地位」ではなかった。


 それらを超えて、この本で知った最も大きな衝撃は「土俵」についてだった。

 著者もその現場を驚きの気持ちで見たことを書いていたが、大相撲が行われる国技館の土俵はそれ以外に使われないという事実、つまり毎回壊され、作り直されていること、しかも全てが人力で…そのことを知ると「結界」という意味がより重く感じられた。

 今日から秋場所。
 土俵を見る目は、以前と変わっている。

「遊び」に市民権を

2016年09月10日 | 読書
Volume20~板坂元のことばシリーズ③

 「遊びは、まだ日本ではちゃんとした市民権を持っておらず、いつも二次的なものとして扱われる。そして、それも手伝って、日本人は上手な遊び方をまだ身につけることができないでいる。」 


 この頃は、ずいぶんと遊び上手な人が増えていると思う。

 それでも、例えば「生産者」と「消費者」という言葉を出してみたとき、どうしても「生産」の方が価値が高いと思ってしまうのは、日本人の性か。
 そもそも、そんなふうに言葉を立ててしまっては解決しないことはわかっている。

 また、「問題は、遊びの質だよ」なんていう言い方をして、どこか建設的であったり、時間の有意義性を求めたりしてしまうことも曲者だ。

 ただ、欧米の(まあそれもある程度のレベル層だと思うが)身についた暮らし方のなかでの遊びと、日本人の多くがイメージする遊びとは、大きな隔たりがあることは確かではないか。
 情報化、国際化が奨める、また進めてきた様々な遊び方でよいのか、と時々思ったりする、まあこんなことしておいてだけれど。



 自分を解放させていく時間や空間を見つけるという意味での「遊び」。
 とにかく、そこをとことん突き詰めていける人が、上手と言えるのだと思った。

 要は行動!なのだが、こんなふうに書き散らしていることも自分には遊びだ。

相棒もって、驚きのネイティブ

2016年09月08日 | 雑記帳
 相棒の普段使いデジカメLF-1が破損して、次の相棒をどうしようかと迷いに迷った。4月に買う時も他候補を考えていたし、もう一度同じようにアアデモナイコウデモナイと、久しぶりに決断力の乏しさ全開だ。まあ4~7万クラスのコンデジには魅力的なモデルがたくさんあるということか。…で、結局、同じモノに?


 LF-1は価格コムには出品されていないが、アマゾンには載っていた。店頭展示のほぼ新品が3万をきっていたので決めることにした。ネットの他に実際に横手の家電を2つ回ったが、値段はともかくこの小ささとスタイルは捨て難い。本物のライカを買えないコンプレックスなのかなあ。今回も皮を貼って仕上げた。


 昨日はビデオカメラとこのLF-1を持って美里音へ。「昔語りDVD鑑賞会」という催しへ参加した。県内の民話や郷土芸能に携わっている方々が集まり、収録されている昔話や人形甚句などが披露された。初めに故人ではあるが町内にいらした二人の昔語り名人のビデオを視聴した。いや、いいものを見せてもらった。


 阿部悦さんのお話は関わっていた時があるので懐かしく拝見した。いつかその事も書きたい。驚いたのは、飯塚キミさんの語りである。かなり前に作成されたあの「羽後町の昔話」の基話を語った人だと知っていたし、子や孫にあたる方と同職もしたので存在はわかっていたが、その姿とともに聴くのは初めてだった。



 ネイティブという言葉があるが、まさしく羽後のそれを久しぶりに堪能した気がする。「鼠浄土」の筋はともかく、語りに登場する言葉とリズムに惹きつけられた。今の40代ぐらいでは半分理解できるだろうか。生が一番だが3割ほどは醍醐味を味わった。語りの締めを資料から再録してみる。我が祖母も浮かんでくる。

 「んだがら、やだらに人のまねしてよ、欲たげるもんでねえもんだって、聞がせられだもんだ。」  

なんのための「使い分け」指導だったか

2016年09月07日 | 読書
Volume19~板坂元のことばシリーズ②

 「日本人は興奮したり真剣になったりしたとき、漢語を使わなくなり大和言葉だけを使うようになる」 

 うーん、これは気づかなかった。言われてみればその通り、と深く納得した。

 政治家の例がたくさん出されているが、もっともなことだ。
 「遺憾」「反省」「認識」など、よく答弁の際に使われる漢語では、意味は通っても、現実味に欠けていることを、誰しもが思ってしまう。

 確かに、抽象度が高いことは具体性が乏しいと単純に考えられるわけで、謝罪説明などの場合は、やはり「目くらまし」効果があると言えよう。



 話し言葉における漢語、和語の使い分けは、それこそ小学校から習っているはずである。
 そのことと、現実に起きている現象を重ねてみると、日本人とは、公的な場での真剣味が足りない、いや体裁をつくろうことを一番に考える国民なのかもしれない。

 「使い分け」という指導を長く続けてきたが、現実と照らし合わせると、それはなんのためだったか、今さらながら疑問を持ってしまう。

短かった相棒との…

2016年09月05日 | 雑記帳
 昨日は2時頃から夜まで、とある撮影のお手伝いをしていたのだが、少しバタバタして大変な失態をしてしまった。愛すべき相棒のデジカメの液晶画面の破損である。パナソニックのLF-1というモデルで、実は4月末に買ったばかり。コンパクトなスタイルが気に入り、ライカっぽくカバーをつけて仕上げたものだ。



 デジカメの相棒はもう何代目になるのか、数えられないほどだ。勤めていた頃は、高倍率中心に買っていた。子どもに近づかなくともスナップを撮れるのでずいぶんと重宝した。それぞれに傷がついたり、持つ箇所が擦り切れたりで「引退」させた。仕事道具としてのデジカメには感謝している。次に買ったのがLF-1だ。


 普段づかいということで、一眼などのカメラを持たないときに(それがほとんどだが)手にする。1/1.7型で7倍倍率というのは結構手頃で、ファインダーもあるし、そこそこの写真が撮れた。なんといっても一緒に台湾に行った仲だし、期間はわずか4ヶ月だが、愛着がある。液晶破損は保障がないし、つくづく残念だ。


 さて、次の相棒探しを急いで始めなければ…とネットなどをみているが、迷走である。スマホも、(使わないが)デジイチも、大きめの高性能コンデジもある…ときて、何を求めているかというと、いい瞬間を「手軽に」よく撮れるという結論。値段次第だかLF-1をもう一度という手もあるか。どうしたもんじゃろのう。

好奇心の扱い方

2016年09月04日 | 読書
Volume18~板坂元のことばシリーズ①

 「好奇心は一過性のものであってはならない。どういう疑問でも頑固に執拗に追いつめることが必要だ。」 

 「好奇心旺盛」というと、誉め言葉のようでありながら、少し揶揄している印象もうける。
 これは、何にでも関心を示し手をつけ行動する人は、途中で止めたり、すぐに変更したりする傾向が強いということを、指しているだろう。

 それ自体は責められることではない。そして、個人的にはそれなりの価値があるように思う。
 興味を持って動くことで、仮に収穫は目に見えなくとも、必ず足跡は残るではないか。

 しかし、また日本ではあまり根づかない考えであることは承知している。
 歴史的な国民性ということもあろう。



 好奇心を持ち何か一つを追求していくことは、ある面で「目標設定」が大事になる。それが意欲の持続になる。
 ただ、目標クリアのみが強くなると危険性もある。
 肝心なのは、追求の過程の面白みである。
 そこで、どんなことを選択していくかについて、最も気を配るべきであることがわかる。

 板坂は、それを「密度の濃いこと」と書き表している。
 今、自分が興味を向けていることの密度の濃さを想っている。

浸りたくなる人

2016年09月02日 | 雑記帳
 時々、無性に浸りたくなる「早川義夫」。

 この夏は『I LOVE HONZI』というライブアルバムを聴き、『生きがいは愛し合うことだけ』(ちくま文庫)を読んだ。

 書店の主人を長くしていた早川が、どんな本を読むのか興味があった。
 文庫本には読書メモのような章があり、感想めいたことも記されていた。
 新書や文章読本のようなジャンルを結構読んでいることが意外だった。
 何冊か、自分も読んでいる本があり、嬉しいような、怖いような…。

 いずれ、歌であっても書物であっても、この人が語ることは「我」という存在についてである。
 価値は個の内部にしかない。
 それは他を認めないことではなく、受けとめる感性のなかにしか価値は生まれないということだ。
 ゆえに他者に「愛」を求めるし、その気持ちに正直なまま接することを何よりの芯として振舞っているように見える。

 彼の内部に磁力があるように、惹きつけられているミュージシャンも多い。
 そのミュージシャンらもとても魅力的だ。
 ともに夭逝した、佐久間正英とHONZI。早川にとっては大切な存在だった。



 そのメンバーで演奏したライブアルバムには10曲収められていて、そのうち唯一、自作品でないものが取り上げられている。
 『僕らはひとり』という曲だ。

 自作でなくとも取り上げた唯一の作品ということは、そこで歌われている世界が、それほど早川にぴったりとくるのだろう。

 その歌のサビは、こうだ。
 シンプルさ、歌声の切なさ…秋の夜更けに聴くと、正直泣けてくる。

 ♪笑っても、泣いても 僕らはひとり
  話はないけど 一緒にいたいよ♪