和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

最初はモノマネ。

2008-09-05 | Weblog
伊良林正哉著「大学院生物語」(文芸社)に「晩夏」という小見出しで始まる文がありました。
「厳しい残暑がようやく矛を収めた頃からは学会シーズンの幕開けである。・・・この時期の私の仕事の一つは、大学院生や留学生達が書いた学会発表の日本語や英語の要旨を添削してまともな文章に仕上げることにある。まともに英文論文を書いている研究員にとっては、英文での要旨のチェックあるいは書き直しの方が本当は楽なのである。つまりは、今時の若者の書いた日本語ほどひどいものはないのである。学会の要旨というものは、目的、方法、結果および考察を限られた字数制限の範囲の中で要領良くまとめなくてはならないのである。日本語の文章というのは難しいものである。基本的な主語や述語がどこにあるのか分からない文章など当たり前、研究目的も曖昧で考えられないような、つまりは実験結果に基づかない考察が書かれているものも多い。そんな文章をまともな日本語の文章に書き直す作業は気の遠くなりそうなものである。・・・私見ではあるが、インターネットの普及とお笑いを軸に据えたテレビ番組に、日本人の文章力の顕著な低下の原因があると私は考えている。これらのメディアを介した情報は、日本人から美しい文章を味わいなおかつ良い文章を書くという機会を奪い取っているとしか思えない。プロの文筆家が書いた文章を読むことが今程要求されている時代もないと思う。最初はモノマネでいいのである。そのうち、まともな文章を書くことが出来るようになるものである。化石だと笑われるかもしれないが、私は新聞を毎日愛読しているし、純文学はウソくさくてとても読む気にはなれないが社会派の小説を必ずカバンに忍ばせているのである。このようにして、自らの文章力を鍛えているつもりである。そんな努力を今時の大学院生達を含めた若者達にしていただきたいと切に思う次第である。」(p61~63)

この箇所を読んで、私に思い浮かんだのは、菊池寛著「文章読本」の序論でした。昭和12年印刷とあります。そこにはこうありました。「いつぞや、女子大學の生徒だといふ若い女性から、手紙を貰つたことがある。筆跡は、なかなかあざやかであつたが、手紙の文章は、ひどく拙(まづ)い。手紙として備へねばならなぬ文句も書いてない。云はんとすることが至極曖昧(あいまい)である。文章の構成など支離滅裂だ。女子の最高学府で、教育を授けられてゐる女子大生ですら、碌(ろく)に手紙が書けないのである。・・・」

そして菊池寛はこう書いておりました。
「いかに文明が進歩して、新しい機械が発明され、人手が省けるやうになつたとしても、文章をかく手数が省けるやうな時代は絶対に来ないのだ。時代が進歩すればするほど、文章の必要はいよいよ深く切実になつて来ると思う。ただ、新しい時代には、新しい文章を要求するのだ。」

どうやら、平成20年の現在でも、まだまだ菊池寛のこの言葉にはリアリティがあり続けているようです。
コメント (3)
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