洲之内徹に「セザンヌの塗り残し」という単行本で9ページほどの文があります。
そこにこんな箇所がありました。
「この頃、目の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということは違う。・・私が身にしみて感じる実感なのだ。・・・絵から何かを感じるのに別に修練は要らないが、絵を見るのには修練が要る。眼を鍛えなければならないのだ。この頃になってやっと、私はそれに気が付いた。・・・」
先頃読んだ中島誠之助著「『開運!なんでも鑑定団』の十五年」(平凡社)には、
そういえば、眼にまつわるいろいろな言葉が登場しておりました。
「目利き」
「プロが目利きと呼んだ場合は、ただ単に真贋が分かる人という意味ではなく、優れた審美眼の持ち主で美の発見が出来る人のことを指しています。ですから、目利きイコール商売巧者という図式は成立しません。昔から骨董業界では『目利き儲からず』といって、目利きが発見した良い品物を、資本力のある業者が吸収して大きな利益を上げることが多いのです。むろん目利きでありかつ商人の素質を充分に兼ね備えているに越したことはありませんが、美の発見は『独断と偏見』に満ちた仕事ですから、狷介固陋(けんかいころう)な職人芸に陥りやすいのです。」(p62)
ほかには「自分目利き」「合い目利き」「他人目利き」(p71~73)。
興味深いのは「相手目利き」というのでした。
そこを少し長く引用してみましょう。
「その道のプロである骨董商のすごさは、ホンモノもニセモノも分かるということです。当たり前のように聞こえますが、これがなかなか至難の技なのです。骨董界の場合、プロとは商取引を生活手段として行っている人を指します。いかに高名な専門学者であっても、いかに感性の優れた蒐集家であっても、彼らはアマチュアなのです。プロの怖さは、ホンモノもニセモノも同じように売り買いするところにあります。アマチュアはそういうことをしませんし、またその能力もありません。多くのアマチュアが持っている特徴は、ホンモノが分かる人ほどニセモノに引っ掛かる。ニセモノに埋もれる人は、ホンモノを分かろうとしない。・・・・・
アマチュアである客は、したり顔で自分の知識をいひけらかせて『これはこういうモノだ』と自信を示す。このような図式の場合、値段を聞いてみるとホンモノであるべき相場よりも、かなり安いはずです。客は掘り出し物だと勘違いして、まんまと取引が成立するのです。これを『相手目利き』といいます。相手の見識に異論を唱えず『はあ、さようでございますか』と、とぼけたふりをしてニセモノを売ってしまうのですね。
近年のインターネットに登場する多数のニセモノは、まさに形を変えた相手目利きの取引です。せいぜい気をつけてくださいよ。」(p74~76)
修業時代のエピソード「モノのあり方」(p199~202)が一読して忘れられません。
ほかにも、「目筋(めすじ)」とか、目にまつわる言葉が並んで、
これが骨董界なのだなあと、思うのでした。
ちなみに、井伏鱒二著「海揚り」を私は感銘を受けて読んだことがありました。
これも、機会があったら、読み直してみたいと思ったわけです。
そこにこんな箇所がありました。
「この頃、目の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということは違う。・・私が身にしみて感じる実感なのだ。・・・絵から何かを感じるのに別に修練は要らないが、絵を見るのには修練が要る。眼を鍛えなければならないのだ。この頃になってやっと、私はそれに気が付いた。・・・」
先頃読んだ中島誠之助著「『開運!なんでも鑑定団』の十五年」(平凡社)には、
そういえば、眼にまつわるいろいろな言葉が登場しておりました。
「目利き」
「プロが目利きと呼んだ場合は、ただ単に真贋が分かる人という意味ではなく、優れた審美眼の持ち主で美の発見が出来る人のことを指しています。ですから、目利きイコール商売巧者という図式は成立しません。昔から骨董業界では『目利き儲からず』といって、目利きが発見した良い品物を、資本力のある業者が吸収して大きな利益を上げることが多いのです。むろん目利きでありかつ商人の素質を充分に兼ね備えているに越したことはありませんが、美の発見は『独断と偏見』に満ちた仕事ですから、狷介固陋(けんかいころう)な職人芸に陥りやすいのです。」(p62)
ほかには「自分目利き」「合い目利き」「他人目利き」(p71~73)。
興味深いのは「相手目利き」というのでした。
そこを少し長く引用してみましょう。
「その道のプロである骨董商のすごさは、ホンモノもニセモノも分かるということです。当たり前のように聞こえますが、これがなかなか至難の技なのです。骨董界の場合、プロとは商取引を生活手段として行っている人を指します。いかに高名な専門学者であっても、いかに感性の優れた蒐集家であっても、彼らはアマチュアなのです。プロの怖さは、ホンモノもニセモノも同じように売り買いするところにあります。アマチュアはそういうことをしませんし、またその能力もありません。多くのアマチュアが持っている特徴は、ホンモノが分かる人ほどニセモノに引っ掛かる。ニセモノに埋もれる人は、ホンモノを分かろうとしない。・・・・・
アマチュアである客は、したり顔で自分の知識をいひけらかせて『これはこういうモノだ』と自信を示す。このような図式の場合、値段を聞いてみるとホンモノであるべき相場よりも、かなり安いはずです。客は掘り出し物だと勘違いして、まんまと取引が成立するのです。これを『相手目利き』といいます。相手の見識に異論を唱えず『はあ、さようでございますか』と、とぼけたふりをしてニセモノを売ってしまうのですね。
近年のインターネットに登場する多数のニセモノは、まさに形を変えた相手目利きの取引です。せいぜい気をつけてくださいよ。」(p74~76)
修業時代のエピソード「モノのあり方」(p199~202)が一読して忘れられません。
ほかにも、「目筋(めすじ)」とか、目にまつわる言葉が並んで、
これが骨董界なのだなあと、思うのでした。
ちなみに、井伏鱒二著「海揚り」を私は感銘を受けて読んだことがありました。
これも、機会があったら、読み直してみたいと思ったわけです。