丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」の最後の対談に、こんな箇所がありました。
【丸谷】・・詩人たちの会というのは長いのよね。
【井上】普段、短く書いているからでしょう(笑)。
【丸谷】高見順賞のパーティなんて長い。それから、受賞者の挨拶というので、だれそれに感謝します。だれそれに感謝しますっていうのを、はじめから終りまでしゃべる人がいるでしょう。二十人も三十人もに対して感謝する。それで終りなのね。
【井上】ハハハハハ。
【丸谷】感謝される対象と感謝する人との共同体だけの問題ですよね。
現今詩人異聞ということで、もう一つ引用。
大岡信著「しのび草 わが師わが友」(世界文化社)に「空穂(うつぼ)先生の恵み」という4ページほどの文があります。
そこに
「『おいおい』と相手に向かって右手をひらひら差し出して振りながら話す。それが空穂先生の話し方の癖の一つだった。そんなときは必ずにこにこ笑って、である。『おいおい、詩壇の有名な人でも、文章を書くとどうもいけないやね、こないだ某という詩人の文章を読んだが、これが今の詩人で一番えらいほうの人の文章かと驚いたよ。きみはどう思う』ときどきこの種の厳しいことをいわれた。」
ちなみに、この大岡氏の文の最初の方にこうあるのでした。
「・・・私は空穂を通じて、古典詩歌を読むのも現代の詩歌を読むのと同じ態度でぶつかって、決して間違ってはいないということを教わった。これを端的にいえば、古典を学問研究の対象とのみ見なすのではなく、生きた文芸として読むということである。現在のわが身辺に起きる出来事の一つとして古典を読むということも存在する、そういう接触の仕方をすることである。・・・早い話が、これはたとえば柿本人麻呂や紀貫之や和泉式部を、わが隣家に住む先達として読む、というのに近い感覚の話なのである。私が空穂を通してそういうことを教えられるようになった・・・・」
現代詩が難しいというなら、チャンス。
現代は、古典を読むチャンス。
隣家に住む先達を知らない手はありません。
ということで、
窪田空穂を読もうではありませんか。
【丸谷】・・詩人たちの会というのは長いのよね。
【井上】普段、短く書いているからでしょう(笑)。
【丸谷】高見順賞のパーティなんて長い。それから、受賞者の挨拶というので、だれそれに感謝します。だれそれに感謝しますっていうのを、はじめから終りまでしゃべる人がいるでしょう。二十人も三十人もに対して感謝する。それで終りなのね。
【井上】ハハハハハ。
【丸谷】感謝される対象と感謝する人との共同体だけの問題ですよね。
現今詩人異聞ということで、もう一つ引用。
大岡信著「しのび草 わが師わが友」(世界文化社)に「空穂(うつぼ)先生の恵み」という4ページほどの文があります。
そこに
「『おいおい』と相手に向かって右手をひらひら差し出して振りながら話す。それが空穂先生の話し方の癖の一つだった。そんなときは必ずにこにこ笑って、である。『おいおい、詩壇の有名な人でも、文章を書くとどうもいけないやね、こないだ某という詩人の文章を読んだが、これが今の詩人で一番えらいほうの人の文章かと驚いたよ。きみはどう思う』ときどきこの種の厳しいことをいわれた。」
ちなみに、この大岡氏の文の最初の方にこうあるのでした。
「・・・私は空穂を通じて、古典詩歌を読むのも現代の詩歌を読むのと同じ態度でぶつかって、決して間違ってはいないということを教わった。これを端的にいえば、古典を学問研究の対象とのみ見なすのではなく、生きた文芸として読むということである。現在のわが身辺に起きる出来事の一つとして古典を読むということも存在する、そういう接触の仕方をすることである。・・・早い話が、これはたとえば柿本人麻呂や紀貫之や和泉式部を、わが隣家に住む先達として読む、というのに近い感覚の話なのである。私が空穂を通してそういうことを教えられるようになった・・・・」
現代詩が難しいというなら、チャンス。
現代は、古典を読むチャンス。
隣家に住む先達を知らない手はありません。
ということで、
窪田空穂を読もうではありませんか。