テレビ「開運!なんでも鑑定団」で、鑑定士のお一人・思文閣の田中大氏が本を出されておりました。「先賢諸聖のことば 直筆の格言・名言コレクション75」(PHP研究所)。田中氏の商売の蔵品から選ばれた墨蹟75点が写真掲載。そこに解釈と、そして面白いことには作品の価格(田中氏のお店価格)まで入っております。まあ、それはそれとして、最初の9ページほどが渡部昇一氏と田中氏の対談になっておりました。ちょっと興味をひきます。
【田中】日頃から弊社は古書や掛け軸を扱わせていただいているのですが、むかし私が丁稚をしていたころは、江戸の儒学者の書や、漢詩を書いたものが非常によく流通し、お買いあげいただいていました。納品に行ったとき、学者の方などから、この書はこれこれこういう内容を書いたものだというのを、よくご教授いただいたものでした。なるほど、そういうことが書かれているのかと、恥ずかしながら勉強させていただいたことを思い出します。・・・ところが、こうしたすばらしい書が売れなくなってきています。漢文や古典の教養が浅くなってきていますね・・・。
過去のひとのことばから学ぶというのは大事なのですが、とても難しいんです。いくら良いことばでも、行書や草書に崩して書いた直筆の文字を見て、ぱっと読めるひとは少ないでしょう。たとえ読めたとしても意味が取りづらい。読むことも難しいし、理解もしにくいとなると、敬遠されるのは当然ですから、それをいかにわかりやすくお伝えするかというのが、これからの課題だと思っています。(p21~22)
そういえば、渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)は、渡部氏の「はじめに」がありました。そのはじまりはこうです。
「唐の太宗には親しいものを感じている、と言ったら不遜に、あるいは奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、書を習った人ならわかってくれると思う。ここ二十数年・・書を習っている・・何しろ極端に練習不足で・・恥ずかしいが、太宗の字が素晴らしいことぐらいはわかるようになった。太宗の拓本の臨書をやっていると、その人のスケールの大きさが何となく感じられるのである。弘法大師の字の素晴らしさとは別種の素晴らしさがある。・・・」
ということで、思文閣の田中大氏による掛け軸の値段などを見ていると、こりゃどうしても、私はこんな墨蹟を掛ける人物じゃなくて、素人でも太宗の字を真似て習ってみる方にしか進む方向が限られているなあと、あらためてみなくても、思い到るわけでした。
さっそく古本で、本朝三字経なるものを買ってみました。
習字の手本のようです。墨の跡まであるのでした。
ちなみに、ネット検索してみますと、
「三字経」(このファイルは「漢文教室」(大修館書店)にて紹介した本文に、通釈と注を付したものです。訓読・通釈・注は加藤敏先生のものです。)が分かりやすくて楽しめました。たとえば、
子不学 子として学ばざるは
非所宜 よろしき所に非ず
幼不学 幼にして学ばざれば
老何為 老いて何をか為さん
玉不琢 玉みがかざれば
不成器 器を成さず
人不学 人まなばざれば
不知義 義を知らず
そういえば、昭憲皇太后御歌(みうた)に
みがかずば玉の光はいでざらむ人のこころもかくこそあるらし
おこたりて磨かざりせば光ある玉も瓦にひとしからまし
というのが、ありました。ありました。
こういう御歌を聞く人には、三字経を小さい頃から習った覚えがあるのでしょうね。などと教養の背景に思いいたるのでした。
【田中】日頃から弊社は古書や掛け軸を扱わせていただいているのですが、むかし私が丁稚をしていたころは、江戸の儒学者の書や、漢詩を書いたものが非常によく流通し、お買いあげいただいていました。納品に行ったとき、学者の方などから、この書はこれこれこういう内容を書いたものだというのを、よくご教授いただいたものでした。なるほど、そういうことが書かれているのかと、恥ずかしながら勉強させていただいたことを思い出します。・・・ところが、こうしたすばらしい書が売れなくなってきています。漢文や古典の教養が浅くなってきていますね・・・。
過去のひとのことばから学ぶというのは大事なのですが、とても難しいんです。いくら良いことばでも、行書や草書に崩して書いた直筆の文字を見て、ぱっと読めるひとは少ないでしょう。たとえ読めたとしても意味が取りづらい。読むことも難しいし、理解もしにくいとなると、敬遠されるのは当然ですから、それをいかにわかりやすくお伝えするかというのが、これからの課題だと思っています。(p21~22)
そういえば、渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)は、渡部氏の「はじめに」がありました。そのはじまりはこうです。
「唐の太宗には親しいものを感じている、と言ったら不遜に、あるいは奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、書を習った人ならわかってくれると思う。ここ二十数年・・書を習っている・・何しろ極端に練習不足で・・恥ずかしいが、太宗の字が素晴らしいことぐらいはわかるようになった。太宗の拓本の臨書をやっていると、その人のスケールの大きさが何となく感じられるのである。弘法大師の字の素晴らしさとは別種の素晴らしさがある。・・・」
ということで、思文閣の田中大氏による掛け軸の値段などを見ていると、こりゃどうしても、私はこんな墨蹟を掛ける人物じゃなくて、素人でも太宗の字を真似て習ってみる方にしか進む方向が限られているなあと、あらためてみなくても、思い到るわけでした。
さっそく古本で、本朝三字経なるものを買ってみました。
習字の手本のようです。墨の跡まであるのでした。
ちなみに、ネット検索してみますと、
「三字経」(このファイルは「漢文教室」(大修館書店)にて紹介した本文に、通釈と注を付したものです。訓読・通釈・注は加藤敏先生のものです。)が分かりやすくて楽しめました。たとえば、
子不学 子として学ばざるは
非所宜 よろしき所に非ず
幼不学 幼にして学ばざれば
老何為 老いて何をか為さん
玉不琢 玉みがかざれば
不成器 器を成さず
人不学 人まなばざれば
不知義 義を知らず
そういえば、昭憲皇太后御歌(みうた)に
みがかずば玉の光はいでざらむ人のこころもかくこそあるらし
おこたりて磨かざりせば光ある玉も瓦にひとしからまし
というのが、ありました。ありました。
こういう御歌を聞く人には、三字経を小さい頃から習った覚えがあるのでしょうね。などと教養の背景に思いいたるのでした。