和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「父の戦地」。

2008-09-04 | Weblog

昨日は、北原亞以子(あいこ)著「父の戦地」(新潮社)を読みました。
かぞえ年四歳の時に父親が出征した北原さんでした。
「父についての記憶は、あると言ってよいのかどうか迷っている。」
そんな風にこの本は始まっております。
その父が手紙を送ってきていたのでした。
「戦地の父から届いた私宛ての葉書は、七十数枚に及ぶ。そのほか母宛てのもの、祖母に宛てたもの、祖父に宛てたものをかぞえると、百七十枚近くなる。なくしてしまったものもある筈で、それらを含めると優に二百枚をこえていたのではないか。」(p75)

北原亜似子氏は昭和13年生まれ。NHKドラマ「深川澪通り木戸番小屋」の原作者といえば御存知の方もいるでしょうね。

この本の後半に、おケイちゃんが語られております。

「私が二十代の頃だったと思う。遊びに行った私の目の前で、おケイちゃんがカラダを震わせて泣き出したことがある。小学生くらいだったおケイちゃんの息子が、戦争物ののっている漫画雑誌を買ってきたのである。おケイちゃんは、息子の手から雑誌を奪い取って畳へ叩きつけた。戦争漫画は読むなと、日頃から息子に言っていたそうだが、息子もまさか母親がそこまで怒るとは思わなかったのだろう。呆気にとられたように口を開け、母親を見つめていた。・・・昭和二十年のおケイちゃんは、二十六、七歳だった筈である。婚約者は戦地にいて、寝たきりの母親とあまり動けない父親をかかえていた。動きの鈍くなった父親をまず防空壕に入れ、母親を連れ出しに行ったというおケイちゃんの話を思い出すと、戦争漫画を面白がる息子に腹が立つ気持ちもよくわかる・・・」(p170~171)
ここから、その日の大本営発表を引用しておりました。
「『大本営発表』といえば、今日でもあてにならないことのたとえに使われるが」(p159)という、発表を丁寧にふりかえっております。

そのおケイちゃんとの関わりが、この本の理解を助けます。

「おケイちゃんが見たのは、空襲がつくる地獄だった。思い出すなどしたくなかったにちがいない。が、有馬頼義先生が企画された東京大空襲の記録収集には協力すると言ってくれたのである。私はすぐに飛んで行くべきだったのだ。言訳をすれば、私はその頃、新潮新人賞受賞後の20年間沈みっ放しの真っ最中で、何とかして水の上に顔を出そうとあがいていた。おケイちゃんのところへ行く暇がないと思っていたのだが、実は、一行も書けずに原稿用紙を眺めていたこともあったのだ。まとまらない考えなど、放り出せばよかったのである。そのうちに、おケイちゃんの体調がわるくなった。・・・手遅れだった。癌だったのである。」(p178)

作者の北原氏は、この本で戦地からの父の手紙を道案内として、ご自身の戦争体験に、あらためて錘(おもり)をたれてゆこうとしています。その戸惑いのような気分が、断片的な小さい頃の思い出を、あちこちから反芻してゆくような、何ともまどろっこしい文体となって前後を繰り返しながら、書きすすめられてゆくのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする