和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

又、引っ掛かった。

2008-09-21 | Weblog
中島誠之助著「『開運!なんでも鑑定団』の十五年」(平凡社)を読んだら、そういえば、小林秀雄の文に「真贋」というのがあったなあと思い浮かびました。ちょうど、講談社文芸文庫の小林秀雄著「栗の樹」をひらくと、そこに入っておりました。
その文は「先年、良寛の『地震後作』と題した詩軸を得て、得意になって掛けていた。」とはじまるのでした。
「何も良寛の書を理解し合点しているわけではない。ただ買ったというので何となく得意なのである。・・・」
そこにある晩、良寛の研究家の吉野秀雄君がやってきて、黙って見ている。
少しの会話があって吉野君はこう答える
『・・越後に地震があってね、それからの良寛は、こんな字は書かない』。
ここで小林君は、どうしたかって
「糞ッいまいましい。又、引っ掛かったか・・
一文字助光の名刀があったから、縦横十文字にバラバラにして了った。」
そして次の日、すこし冷静になった小林君は、考えます。

「私の軸には又別の専門家の箱書があるから、無論世間にはそれで通る。私はただ信頼している友人にニセ物だと言われた以上、持っている事が不可能であるとはっきり感じたまでだ。・・・・ともあれ、さっさと売ればよい。助光の名刀なぞと飛んだ話だ。世人を惑わすニセ物を退治したと思いたいところだが、一幅退治している間に、何処かで三幅ぐらい生れているとは、当人よく承知しているから駄目である。要するに全く無意味な気紛れだ。気紛れを繰返していれば破産する。」
「ニセ物は減らない。ホン物は減る一方だから、ニセ物は増える一方という勘定になる。需要供給の関係だから仕方がない。例えば雪舟のホン物は、専門家の説によれば十幾点しかないが、雪舟を掛けたい人が一万人ある以上、ニセ物の効用を認めなければ、書画骨董界は危殆(きたい)に瀕する。商売人は、ニセ物という言葉を使いたがらない。ニセ物と言わないと気の済まぬのは素人で、私なんか、あんたみたいにニセ物ニセ物というたらどもならん、などとおこられる。相場の方がはっきりしているのだから、ニセ物という様な徒に人心を刺激する言葉は、言わば禁句にして置く方がいいので、例えば二番手だという、ちと若いと言う、ジョボたれてると言う、みんなニセ物という概念とは違う言葉だが、『二番手』が何番手までを含むか、『若い』が何処まで若いかは曖昧であり、又曖昧である事が必要である。そんな言葉の綾ではいよいよ間に合わなくなって来ても、イケない、とかワルいとか言って置く。まことに世間の実理実情に即した物を言っているところ、専門文士の参考にもなるのである。」

「糞ッいまいましい、又、引っ掛かったか」
と小林君はいっているくらいですから、どれだけ引っ掛かったことやら。
この「真贋」という文を読み直すと、これが「狐つき」が落ちるまでの顛末記となっているじゃありませんか。いやはや。
それでもって、まわりまわって書画骨董界に流れる循環の機微を、
身銭をはらって体得したんでしょうね。なんせまっしぐらの体当りです。


あらためて、私は思うのですが、小林秀雄の批評というのは、
一文字助光の名刀じゃないけれど、その対象への魅力的な切り口にあるのじゃないでしょうか? 「あっ」という間もあらばこそ、十分に間をとってからの、有無をいわせない切り口(まあ、このような感想を述べたくなることからして、もう小林秀雄の術中にはまってしまっているということになるのでしょうけれど)。


そういえば、ちなみに小林秀雄著「ゴッホの手紙」の序では、
上野のゴッホの複製画を見て愕然とし「たうとうその前にしやがみ込んで了つた。」というエピソードから始まっているのでした。

ところで、小林秀雄の「真贋」の文はまだつづくのですが、
その途中にこんな文句があります。
「では美は信用であるか。そうである。純粋美とは比喩である。鑑賞も一種の創作だから、一流の商売人には癖の強い人が多いのである。」
これじゃ、小林君。批評をダシにして自分の創作についを語っていると、ついつい思うのは御愛嬌。
コメント
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