KAWADE道の手帖シリーズの「安藤鶴夫」(河出書房新社)。
そこに「安藤鶴夫単行本未収録コレクション」と銘打って、その最初に「落語三題」という文が載っておりました。そこにこんな文がある。
「・・・【鰍沢】といえば、ぼくなどでさえ聞いたこともない亡き三遊亭円喬をすぐ思い出すほど、たいした鰍沢だったらしいが、円生は三越の舞台で、子供時代に円喬の鰍沢を聞いて、時分もこんな落語家になりたいなと思ったという話をマクラに振って、しかし円喬は円喬、自分は自分、なアに円喬なんか糞オ食えという気がなくては、とてもこんなうるさ方の客ばかりの三越名人会なんかで鰍沢などやれるものではないと、そんなことをいって笑わせたり、また自分の気を楽にして芸にかかるといった一種の構えからばかりではなしに、多少の真剣味を持って、そんなマクラを振っていた。
なる程、御尤もである。
結局、ぼく自身のことにしても、あれだけ立派な仕事を他人(ひと)様がしているのだから、なにを今更ら自分なんかがと思ったひには、一言半句、ものなど書いてはいられないことになる。
他人のいいことを十分に認めて、その上でまたなアに自分は自分という気構がなくては、一日だって生きてはいけないことになる。」(p24)
うんうん。安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」を読んでいると、落語を文字に書きかえているわけなのですが、たしかに「なアに自分は自分」といっている安藤鶴夫が、この本にはいるのがわかるのでした。
ついでに、
この冊子には大佛次郎氏の文が載っているので、それも引用。
安藤鶴夫作品集1の月報に載った文だとあります。
題は「安鶴さんと『苦楽』」。
「苦楽」とは昭和21年11月創刊~24年7月終刊の雑誌。
「・・・戦後文学史に『苦楽』の名が出たのを見たことがない。三号で消えた新しい同人雑誌のことは書いてあっても、新しい運動でないから『苦楽』を見なかったのだろう。古い日本の残照だった老大家の落着きはらった仕事が、どれだけ戦後の日本人の感情の渇を癒したことか、私は現在も自慢に思っているくらいである。・・・少し雑誌の調子が硬くなったから、柔くしようと云うので、私は落語を連載することを思立った。これも、実際に滅亡しようとしていたのだし、江戸から明治にかけての口話文、特に下町の言葉として、早く正確に保存の道を考えたいとの頭もあった。現在のような落語の繁昌を考えられず、また今日のようにまだ落語が悪く崩れない時代だったので、東京の言葉をとらえることが、まだ出来た。昔の速記の形式でなく、音や語調を文字に出せるものならと、須貝君に誰がよかろうと相談したら、東京新聞にいる安藤さんですねと云う返事、私もあのひとかと思っていたところで、早速安藤さんに頼んで桂文楽の話したままを筆に写して貰って連載・・・
安藤さんの落語鑑賞は、古い速記の上に出るもので、現在でも貴重だが、後世になるほど国文学者も注意しなければなるまい。書いた文章と違って、話言葉は、口うつしより外、残らない。途中で消えたり訛って便利一辺に変化して毀れて仕舞うのである。安藤さんは実に身を空しくして、慎重に注意深く聞き、それを文章にどう書くかに苦労した。・・・・安藤さんは他の人間では真似出来ぬ好い仕事をいろいろと遺して行ってくれたので、有難い。」(p59~60)
ということで、古本屋からは今だ返事がこないけれど、
安藤鶴夫作品集全6巻を注文しておいたのでした。
ちなみに、
幸田文は、明治37年・1904年の南葛飾生まれ。
安藤鶴夫は、明治41年・1908年の浅草生まれ。
そこに「安藤鶴夫単行本未収録コレクション」と銘打って、その最初に「落語三題」という文が載っておりました。そこにこんな文がある。
「・・・【鰍沢】といえば、ぼくなどでさえ聞いたこともない亡き三遊亭円喬をすぐ思い出すほど、たいした鰍沢だったらしいが、円生は三越の舞台で、子供時代に円喬の鰍沢を聞いて、時分もこんな落語家になりたいなと思ったという話をマクラに振って、しかし円喬は円喬、自分は自分、なアに円喬なんか糞オ食えという気がなくては、とてもこんなうるさ方の客ばかりの三越名人会なんかで鰍沢などやれるものではないと、そんなことをいって笑わせたり、また自分の気を楽にして芸にかかるといった一種の構えからばかりではなしに、多少の真剣味を持って、そんなマクラを振っていた。
なる程、御尤もである。
結局、ぼく自身のことにしても、あれだけ立派な仕事を他人(ひと)様がしているのだから、なにを今更ら自分なんかがと思ったひには、一言半句、ものなど書いてはいられないことになる。
他人のいいことを十分に認めて、その上でまたなアに自分は自分という気構がなくては、一日だって生きてはいけないことになる。」(p24)
うんうん。安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」を読んでいると、落語を文字に書きかえているわけなのですが、たしかに「なアに自分は自分」といっている安藤鶴夫が、この本にはいるのがわかるのでした。
ついでに、
この冊子には大佛次郎氏の文が載っているので、それも引用。
安藤鶴夫作品集1の月報に載った文だとあります。
題は「安鶴さんと『苦楽』」。
「苦楽」とは昭和21年11月創刊~24年7月終刊の雑誌。
「・・・戦後文学史に『苦楽』の名が出たのを見たことがない。三号で消えた新しい同人雑誌のことは書いてあっても、新しい運動でないから『苦楽』を見なかったのだろう。古い日本の残照だった老大家の落着きはらった仕事が、どれだけ戦後の日本人の感情の渇を癒したことか、私は現在も自慢に思っているくらいである。・・・少し雑誌の調子が硬くなったから、柔くしようと云うので、私は落語を連載することを思立った。これも、実際に滅亡しようとしていたのだし、江戸から明治にかけての口話文、特に下町の言葉として、早く正確に保存の道を考えたいとの頭もあった。現在のような落語の繁昌を考えられず、また今日のようにまだ落語が悪く崩れない時代だったので、東京の言葉をとらえることが、まだ出来た。昔の速記の形式でなく、音や語調を文字に出せるものならと、須貝君に誰がよかろうと相談したら、東京新聞にいる安藤さんですねと云う返事、私もあのひとかと思っていたところで、早速安藤さんに頼んで桂文楽の話したままを筆に写して貰って連載・・・
安藤さんの落語鑑賞は、古い速記の上に出るもので、現在でも貴重だが、後世になるほど国文学者も注意しなければなるまい。書いた文章と違って、話言葉は、口うつしより外、残らない。途中で消えたり訛って便利一辺に変化して毀れて仕舞うのである。安藤さんは実に身を空しくして、慎重に注意深く聞き、それを文章にどう書くかに苦労した。・・・・安藤さんは他の人間では真似出来ぬ好い仕事をいろいろと遺して行ってくれたので、有難い。」(p59~60)
ということで、古本屋からは今だ返事がこないけれど、
安藤鶴夫作品集全6巻を注文しておいたのでした。
ちなみに、
幸田文は、明治37年・1904年の南葛飾生まれ。
安藤鶴夫は、明治41年・1908年の浅草生まれ。