昨日の水曜日は電車の中で養老孟司・久石譲対談「耳で考える」(角川oneテーマ21新書)を読む。普段は、虫にむかって、黙々と語りかける(?)養老さんが、よい聞き手を得て、嬉々として語り始める。そんな様子が伝わってくるような対談。なにやら、蝉の声としての養老孟司の語りが、聞き手の久石氏のあのきれいな岩(頭)にしみこんでゆくような錯覚を抱くのでした(笑)。
そういえば、
対談最後のあとがきは、久石氏でした。
こうあります。
「長い間待ち望んでいた養老さんとの(対談)本が出来た。・・・
それはどんな映画よりもおもしろく、僕はただただ感動しわくわくしながら聞き入っていた。・・・人間が生きていく上で、もやもやしてすっきりしないことをこうですよとばっさり言葉で言い切るのが理論だと僕は思う。・・・僕はといえば、まだガチガチの理論派なのである。いや、理論武装するほど勉強してはいないので理論好きというところである。この間も音楽大学で特別講義をおこなったとき、学生に『和声学や対位法』の理論は徹底的に勉強した方がいい、と声を大にして言った。・・・『知る』ということの無上の喜びを知った。だからこの本の一番の読者は僕であり、多くの人たちとその喜びを共有できたらもっと嬉しい。・・」
さてさて。
あらためて、新書の帯のお二人の写真を眺めております。
帯の真中に言葉「脳よりも耳を使え!」という言葉の垂れ幕。
その言葉を右から養老さんの顔写真。左が久石さんの顔写真。
どちらも向かい合っているように写っております。
いけません。養老さんの白髪が
まるで、ナウシカのオームの触手のように
久石氏の頭に延びてゆくような幻想を抱く私がおります(笑)。
よい聞き手を得て、ほとばしり出るような養老氏の語りは、
多岐にわたり、その一箇所だけを取り押えても、しょうもないのですが、
それでも、私に読後も印象に残る箇所を、ひとつ引用しておきます。
それは情報化と情報処理のまったく違うということを語っている箇所。
とりあえず、情報処理の作業とは、こう語っております。
「あの人はこう言っている、この人はこう言っている、これとこれは理屈でいえば矛盾しているだろうとか、あそこにはこう書いてあったとか、そういう他の人の言っていることや書いていることを上手に整理してまとめていくのは『情報処理』なんです。」
これに対して情報化はどうか。
ちょっと丁寧に引用してみます。
「僕は昨日、何をしていたかというと、ある新種の虫の特徴を言葉にして記載していたんです。頭がどうなっている、胸がどうなっているというのをA4ぐらいの紙一枚に書いていく。やってみるとわかりますけど、『頭がこうなっています』ということを説明するためには、同じ仲間の同じ種類の他の個体を見ていくとどうなっているか、他の個体には当てはまることは何で、当てはまらないことは何かといったことを全部知っていないといけないんですよ。つまり何が書くに値するかということがわかるまでには、相当の種類、数を見てないといけない。それが一番ベースにある。その虫がよっぽど変わっていたとしても、単にその個体だけの特徴である場合は、それを判断して落としていかなくてはならない。似たような虫が多い場合、これはこういう部分が他のとは違うよな、というのをパターン認識して、それを言葉にしていく。そういう作業を、僕は『情報化』といっています。たかが一匹の虫のことを書くだけだろうと思うかもしれませんが、『情報化』というのは、えらく時間がかかって、えらく大変なことなんですよ。
今は『情報』という言葉があまりにも普通に使われているから皆さんピンと来ないかもしれないけれど、自分が見ている世界を言葉にする時、それ一つだけをよく見れば書けるというものではないんです。それを書くためには、他のことをたくさん、しかもよくわかっていないと、的確に表現することはできない。」(p128~129)
う~ん。これからの私の連想は、
昨今の政治情勢でした。
情報処理に長けた野党民主党が、
今度は、情報化に取り組むこととなった。
「えらく時間がかかって、えらく大変なこと」を
どこまで、情報化し、
どこから、お家芸である情報処理で対処してゆくのか。
え~と、この新書は、いろいろな連想を呼び覚ましてゆくのですが、
あとは、読んでのお楽しみ。
そういえば、
対談最後のあとがきは、久石氏でした。
こうあります。
「長い間待ち望んでいた養老さんとの(対談)本が出来た。・・・
それはどんな映画よりもおもしろく、僕はただただ感動しわくわくしながら聞き入っていた。・・・人間が生きていく上で、もやもやしてすっきりしないことをこうですよとばっさり言葉で言い切るのが理論だと僕は思う。・・・僕はといえば、まだガチガチの理論派なのである。いや、理論武装するほど勉強してはいないので理論好きというところである。この間も音楽大学で特別講義をおこなったとき、学生に『和声学や対位法』の理論は徹底的に勉強した方がいい、と声を大にして言った。・・・『知る』ということの無上の喜びを知った。だからこの本の一番の読者は僕であり、多くの人たちとその喜びを共有できたらもっと嬉しい。・・」
さてさて。
あらためて、新書の帯のお二人の写真を眺めております。
帯の真中に言葉「脳よりも耳を使え!」という言葉の垂れ幕。
その言葉を右から養老さんの顔写真。左が久石さんの顔写真。
どちらも向かい合っているように写っております。
いけません。養老さんの白髪が
まるで、ナウシカのオームの触手のように
久石氏の頭に延びてゆくような幻想を抱く私がおります(笑)。
よい聞き手を得て、ほとばしり出るような養老氏の語りは、
多岐にわたり、その一箇所だけを取り押えても、しょうもないのですが、
それでも、私に読後も印象に残る箇所を、ひとつ引用しておきます。
それは情報化と情報処理のまったく違うということを語っている箇所。
とりあえず、情報処理の作業とは、こう語っております。
「あの人はこう言っている、この人はこう言っている、これとこれは理屈でいえば矛盾しているだろうとか、あそこにはこう書いてあったとか、そういう他の人の言っていることや書いていることを上手に整理してまとめていくのは『情報処理』なんです。」
これに対して情報化はどうか。
ちょっと丁寧に引用してみます。
「僕は昨日、何をしていたかというと、ある新種の虫の特徴を言葉にして記載していたんです。頭がどうなっている、胸がどうなっているというのをA4ぐらいの紙一枚に書いていく。やってみるとわかりますけど、『頭がこうなっています』ということを説明するためには、同じ仲間の同じ種類の他の個体を見ていくとどうなっているか、他の個体には当てはまることは何で、当てはまらないことは何かといったことを全部知っていないといけないんですよ。つまり何が書くに値するかということがわかるまでには、相当の種類、数を見てないといけない。それが一番ベースにある。その虫がよっぽど変わっていたとしても、単にその個体だけの特徴である場合は、それを判断して落としていかなくてはならない。似たような虫が多い場合、これはこういう部分が他のとは違うよな、というのをパターン認識して、それを言葉にしていく。そういう作業を、僕は『情報化』といっています。たかが一匹の虫のことを書くだけだろうと思うかもしれませんが、『情報化』というのは、えらく時間がかかって、えらく大変なことなんですよ。
今は『情報』という言葉があまりにも普通に使われているから皆さんピンと来ないかもしれないけれど、自分が見ている世界を言葉にする時、それ一つだけをよく見れば書けるというものではないんです。それを書くためには、他のことをたくさん、しかもよくわかっていないと、的確に表現することはできない。」(p128~129)
う~ん。これからの私の連想は、
昨今の政治情勢でした。
情報処理に長けた野党民主党が、
今度は、情報化に取り組むこととなった。
「えらく時間がかかって、えらく大変なこと」を
どこまで、情報化し、
どこから、お家芸である情報処理で対処してゆくのか。
え~と、この新書は、いろいろな連想を呼び覚ましてゆくのですが、
あとは、読んでのお楽しみ。