暑さがつづきますが、秋ですね。
なんだか、詩でも読みたくなります。
ということで、NHK出版生活人新書の一冊
小池昌代編著「通勤電車でよむ詩集」をめくってみました。
うんうん。普通の詩のアンソロジーではおめにかかれない
はじめて読む詩が、そこには並んでおりました。
こういうのを見ていると、さて、私ならどんな詩を並べるだろうなあ。という気持になってきたりします。
ということで、ちょうど思い浮かんだ詩三篇。
秋の歌 ルミ・ド・グウルモン
倚(よ)りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり
愁(さび)しくも濡(しめ)りがちなる秋の時なり、・・・・
・・・・・・・・・
倚りそへよ、わがよき人よ、秋風は激しく叫びてわれ等を叱咤するなり。
小径に沿ひて、風の言葉は鳴り、
茂れる葎(くさむら)のうちに、
山鳩のやさしき羽音はなほきこゆ。
・・・・・・・・・・
倚りそへよ、わがよき人よ、さびしき秋は、今し、
冬の腕(かひな)に身を委ねんとしてあり、
されど夏の草なほ生え出でんとし、
咲きいでし芝草の花はやさしく
最期(いまは)の靄に包まれては、
花咲ける蘚(こけ)にも似たり。
倚りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
( 堀口大學編訳「月下の一群」講談社文芸文庫より )
堀口大學のこの「月下の一群」は関東大震災の2年後(大正14年)に第一書房より刊行されておりました。現地フランスにて梱包された訳詩集は、ひらくと同時にその場の雰囲気まで匂いひろがるような気分です。それは時代を超えて現代でもほどんど違和感なく、それは、まるで冷凍保存された言葉が、そのままに解凍されて出されたようなみずみずしさえ私には感じさせます。この本の序にはこうあります。
「最近十年間の私の訳詩の稿の中から・・・仏蘭西近代の詩人66家の長短の作品340篇を選んでこの集を作った。最初私はこの集を見本帖と云う表題で世に問うつもりであった。と云う理由(わけ)は、たまたま此集が仏蘭西近代詩の好箇の見本帖であったからである・・・読者の見らるるとおり、私がこの集の訳に用いた日本語の文体には、或は文語体があり、或は口語体があり、硬軟新古、実にあらゆる格調がある。然しそのいずれの場合にあっても、私が希(ねが)ったことは、常に原作のイリュジヨンを最も適切に与え、原作者の気凛を最も直接に伝え得る日本語を選びたいと云う一事であった。・・・・」
これにまつわる有名はエピソードも引用しておきましょう。
「『月下の一群』のあの詩人群の大方は、その頃まだ日本には名さえ知られていなかった。ぼくはその人たちの作品を、名もない詩誌のバックナンバーや、市販には見出せない小部数発行の詩集やを探し集めては、読み耽り、気に入っては翻訳可能の一篇でも見つかるとこおどりして、これに立ち向かった。ヴァレリーもコクトーもぼくは自分で見つけた。」
こうして原作者と同時代・同国で出会った詩を封印したような一冊。
いまでも本をひらけば、煙が立ちのぼるような錯覚をおぼえる一冊。
さて、次にいきましょう。
茨木のり子さんは1926年大阪生まれの詩人。
ここでは、夫・三浦安信氏について、
安信氏は1918年8月28日生まれ、山形県鶴岡市出身。
旧制山形高等学校理科乙類に進まれ、
1945年に大阪帝国大学医学部を卒業。46年には新潟医大の助手。
1949年に学位をとられ、秋に結婚。都下東村山にある結核予防会・保生園の医師に。
1954年に北里研究所の付属病院に。
1961年に蜘蛛膜下出血の大病を患います
岩崎勝海氏によりますと、
「恢復までに大変長い期間を要された。数年たって、久しぶりにお訪ねした時、病の後の、以前とは見違えるほど暗く、そして一段ともの静かになられた安信先輩と遭遇した。のり子さんは看病疲れの気配も見せず、毅然としておられた。それからも私は、ときどきお邪魔して、以前と同じように勝手なおしゃべりを安信さんにきいていただいていたが、安信さんは肝臓癌で1975年5月22日に亡くなられてしまった。57歳であった。」
さて、茨木のり子は2006年2月17日に亡くなります。
そのあとに残された詩篇が「歳月」と題して出版されたのが、2007年2月でした。
その詩集「歳月」に「椅子」という詩がありました。
椅子 茨木のり子
―――あれが ほしい―――
子供のようにせがまれて
ずいぶん無理して買ったスェーデンの椅子
ようやくめぐりあえた坐りごこちのいい椅子
よろこんだのも束の間
たった三月坐ったきりで
あなたは旅立ってしまった
あわただしく
別の世界へ
―――あの椅子にもあんまり坐らないでしまったな――
病室にそんな切ない言葉を残して
わたしの嘆きを坐らせるためになら
こんな上等の椅子はいらなかったのに
ひとり
ひぐらしを聴いたり
しんしんふりつむ雪の音に
耳かたむけたりしながら
月日は流れ
今のわずかな慰めは
あなたが欲しいというものは
一度も否と言わずにきたこと
そして どこかで
これよりも更にしっくりしたいい椅子を
見つけられたらしい
ということ
詩集「歳月」には、あとがきにかえて「『Y』の箱」という宮崎治氏の文が添えられておりました。そのはじまりは
「『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた1975年以降、31年の長い歳月の間に40篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。
何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。・・・・」
そこで、思い浮かぶのは生前に発表された詩集「倚りかからず」でした。
そこから詩「倚りかからず」を最後に引用。
倚りかからず 茨木のり子
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
なんだか、詩でも読みたくなります。
ということで、NHK出版生活人新書の一冊
小池昌代編著「通勤電車でよむ詩集」をめくってみました。
うんうん。普通の詩のアンソロジーではおめにかかれない
はじめて読む詩が、そこには並んでおりました。
こういうのを見ていると、さて、私ならどんな詩を並べるだろうなあ。という気持になってきたりします。
ということで、ちょうど思い浮かんだ詩三篇。
秋の歌 ルミ・ド・グウルモン
倚(よ)りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり
愁(さび)しくも濡(しめ)りがちなる秋の時なり、・・・・
・・・・・・・・・
倚りそへよ、わがよき人よ、秋風は激しく叫びてわれ等を叱咤するなり。
小径に沿ひて、風の言葉は鳴り、
茂れる葎(くさむら)のうちに、
山鳩のやさしき羽音はなほきこゆ。
・・・・・・・・・・
倚りそへよ、わがよき人よ、さびしき秋は、今し、
冬の腕(かひな)に身を委ねんとしてあり、
されど夏の草なほ生え出でんとし、
咲きいでし芝草の花はやさしく
最期(いまは)の靄に包まれては、
花咲ける蘚(こけ)にも似たり。
倚りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
( 堀口大學編訳「月下の一群」講談社文芸文庫より )
堀口大學のこの「月下の一群」は関東大震災の2年後(大正14年)に第一書房より刊行されておりました。現地フランスにて梱包された訳詩集は、ひらくと同時にその場の雰囲気まで匂いひろがるような気分です。それは時代を超えて現代でもほどんど違和感なく、それは、まるで冷凍保存された言葉が、そのままに解凍されて出されたようなみずみずしさえ私には感じさせます。この本の序にはこうあります。
「最近十年間の私の訳詩の稿の中から・・・仏蘭西近代の詩人66家の長短の作品340篇を選んでこの集を作った。最初私はこの集を見本帖と云う表題で世に問うつもりであった。と云う理由(わけ)は、たまたま此集が仏蘭西近代詩の好箇の見本帖であったからである・・・読者の見らるるとおり、私がこの集の訳に用いた日本語の文体には、或は文語体があり、或は口語体があり、硬軟新古、実にあらゆる格調がある。然しそのいずれの場合にあっても、私が希(ねが)ったことは、常に原作のイリュジヨンを最も適切に与え、原作者の気凛を最も直接に伝え得る日本語を選びたいと云う一事であった。・・・・」
これにまつわる有名はエピソードも引用しておきましょう。
「『月下の一群』のあの詩人群の大方は、その頃まだ日本には名さえ知られていなかった。ぼくはその人たちの作品を、名もない詩誌のバックナンバーや、市販には見出せない小部数発行の詩集やを探し集めては、読み耽り、気に入っては翻訳可能の一篇でも見つかるとこおどりして、これに立ち向かった。ヴァレリーもコクトーもぼくは自分で見つけた。」
こうして原作者と同時代・同国で出会った詩を封印したような一冊。
いまでも本をひらけば、煙が立ちのぼるような錯覚をおぼえる一冊。
さて、次にいきましょう。
茨木のり子さんは1926年大阪生まれの詩人。
ここでは、夫・三浦安信氏について、
安信氏は1918年8月28日生まれ、山形県鶴岡市出身。
旧制山形高等学校理科乙類に進まれ、
1945年に大阪帝国大学医学部を卒業。46年には新潟医大の助手。
1949年に学位をとられ、秋に結婚。都下東村山にある結核予防会・保生園の医師に。
1954年に北里研究所の付属病院に。
1961年に蜘蛛膜下出血の大病を患います
岩崎勝海氏によりますと、
「恢復までに大変長い期間を要された。数年たって、久しぶりにお訪ねした時、病の後の、以前とは見違えるほど暗く、そして一段ともの静かになられた安信先輩と遭遇した。のり子さんは看病疲れの気配も見せず、毅然としておられた。それからも私は、ときどきお邪魔して、以前と同じように勝手なおしゃべりを安信さんにきいていただいていたが、安信さんは肝臓癌で1975年5月22日に亡くなられてしまった。57歳であった。」
さて、茨木のり子は2006年2月17日に亡くなります。
そのあとに残された詩篇が「歳月」と題して出版されたのが、2007年2月でした。
その詩集「歳月」に「椅子」という詩がありました。
椅子 茨木のり子
―――あれが ほしい―――
子供のようにせがまれて
ずいぶん無理して買ったスェーデンの椅子
ようやくめぐりあえた坐りごこちのいい椅子
よろこんだのも束の間
たった三月坐ったきりで
あなたは旅立ってしまった
あわただしく
別の世界へ
―――あの椅子にもあんまり坐らないでしまったな――
病室にそんな切ない言葉を残して
わたしの嘆きを坐らせるためになら
こんな上等の椅子はいらなかったのに
ひとり
ひぐらしを聴いたり
しんしんふりつむ雪の音に
耳かたむけたりしながら
月日は流れ
今のわずかな慰めは
あなたが欲しいというものは
一度も否と言わずにきたこと
そして どこかで
これよりも更にしっくりしたいい椅子を
見つけられたらしい
ということ
詩集「歳月」には、あとがきにかえて「『Y』の箱」という宮崎治氏の文が添えられておりました。そのはじまりは
「『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた1975年以降、31年の長い歳月の間に40篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。
何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。・・・・」
そこで、思い浮かぶのは生前に発表された詩集「倚りかからず」でした。
そこから詩「倚りかからず」を最後に引用。
倚りかからず 茨木のり子
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ