1994年に単行本になっていた「紳士と淑女 人物クロニクル 1980-1994」を、読まないけれども、パラパラめくってみると、堀口大學氏の写真が載っているページがあり、その箇所を読んでみました。
1981年5月号(81年3月)
「湘南の空が春のうららに晴れていた3月15日、『饗宴にエロスを招く者』堀口大學が葉山の自宅で逝った。89歳。はじめは、西洋の詩人の見本をお目にかけようというわけで『見本帖』の表題が予定されていた大正14年の訳詩集『月下の一群』。ヴェルレーヌ、コクトオ、アポリネールら66人の詩人の340編を新鮮な日本語で紹介した、近代日本文学史の・・・というよりは精神史上の、記念すべき一瞬である。
サンボリズムを移そうと思えば、あの日本語しかなかったのだ。堀口大學の重さは、『社会主義の良心』かは知らないが荒畑寒村などとは比較にならないことを、新聞編集者は知ってほしい。いまの編集局長クラスなら戦後の全訳『悪の華』を読んだだろうに。それとも君らは『空想より科学へ・・・』などに安っぽくカンゲキしていたのか?・・・・」
最初、私は、この堀口大學を追悼した箇所を読んだとき、コリャ誰か、文学に精通している方が、かわって書いたのじゃないか? などと不遜にも思ってしまいました。
ましてや、『月下の一群』を、荒畑寒村や『空想より・・』と比較するという斬新さ。普通はこんな発想はしないよなあ。と思ってしまったのでした。
ところが、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社)を何げなく開いていたら、
そこに、こんな箇所がありました。
「恩師の故中西信太郎先生は、シェークスピアの深い研究で知られる碩学だった。『シェークスピア物語』のチャールズ・ラムを卒業論文に書いた私は、先生の堅実な御学風を慕って、できれば大学に残るか高校の英語教師になりたかった。ところが某日、研究室に呼ばれた。『きみは体力がありそうだから教師には勿体ない。新聞社に入ったらどうですか。地下【の学生控室】に新聞社の求人が貼ってありましたよ』
私を雑駁なジャーナリズムの道に進めて下さったのは中西先生である。あとで考えると体力があるからとはヘンな理由だが、先生が真面目な顔で言われたものだから当時の私は可笑しいとも思わなかった。私がはじめてフルブライト留学生試験を受けたのは1958年のことで、願書に添えて出す推薦状をお願いに行くと、先生はちょっとバツが悪そうに笑ってから言われた。『きみ、それじゃ僕これから推薦の文章を考えますから、すまないけどちょっと事務室に行って西鉄が勝っているかどうか聞いてきてくれませんか』・・・」(p81)
うん。そういえば私が好きな訳詩で、中西信太郎著「完訳 シェークスピア ソネット集」(英宝社)が、あったことを思い出しました。
略歴を最初から思い出してみれば、氷解したのですが、徳岡孝夫氏は、1930年大阪生れ、53年京都大学文学部卒でした(笑)。
1981年5月号(81年3月)
「湘南の空が春のうららに晴れていた3月15日、『饗宴にエロスを招く者』堀口大學が葉山の自宅で逝った。89歳。はじめは、西洋の詩人の見本をお目にかけようというわけで『見本帖』の表題が予定されていた大正14年の訳詩集『月下の一群』。ヴェルレーヌ、コクトオ、アポリネールら66人の詩人の340編を新鮮な日本語で紹介した、近代日本文学史の・・・というよりは精神史上の、記念すべき一瞬である。
サンボリズムを移そうと思えば、あの日本語しかなかったのだ。堀口大學の重さは、『社会主義の良心』かは知らないが荒畑寒村などとは比較にならないことを、新聞編集者は知ってほしい。いまの編集局長クラスなら戦後の全訳『悪の華』を読んだだろうに。それとも君らは『空想より科学へ・・・』などに安っぽくカンゲキしていたのか?・・・・」
最初、私は、この堀口大學を追悼した箇所を読んだとき、コリャ誰か、文学に精通している方が、かわって書いたのじゃないか? などと不遜にも思ってしまいました。
ましてや、『月下の一群』を、荒畑寒村や『空想より・・』と比較するという斬新さ。普通はこんな発想はしないよなあ。と思ってしまったのでした。
ところが、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社)を何げなく開いていたら、
そこに、こんな箇所がありました。
「恩師の故中西信太郎先生は、シェークスピアの深い研究で知られる碩学だった。『シェークスピア物語』のチャールズ・ラムを卒業論文に書いた私は、先生の堅実な御学風を慕って、できれば大学に残るか高校の英語教師になりたかった。ところが某日、研究室に呼ばれた。『きみは体力がありそうだから教師には勿体ない。新聞社に入ったらどうですか。地下【の学生控室】に新聞社の求人が貼ってありましたよ』
私を雑駁なジャーナリズムの道に進めて下さったのは中西先生である。あとで考えると体力があるからとはヘンな理由だが、先生が真面目な顔で言われたものだから当時の私は可笑しいとも思わなかった。私がはじめてフルブライト留学生試験を受けたのは1958年のことで、願書に添えて出す推薦状をお願いに行くと、先生はちょっとバツが悪そうに笑ってから言われた。『きみ、それじゃ僕これから推薦の文章を考えますから、すまないけどちょっと事務室に行って西鉄が勝っているかどうか聞いてきてくれませんか』・・・」(p81)
うん。そういえば私が好きな訳詩で、中西信太郎著「完訳 シェークスピア ソネット集」(英宝社)が、あったことを思い出しました。
略歴を最初から思い出してみれば、氷解したのですが、徳岡孝夫氏は、1930年大阪生れ、53年京都大学文学部卒でした(笑)。