文春新書の徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女1980~2009」の精選コラムを楽しく読んだので、それではと、古本の「紳士と淑女 人物クロニクル1980~1994」「紳士と淑女2 人物クロニクル1994~1996」を開いてみたのですが、お手上げ、私は文春新書の一冊で満足することにしました。
う~ん。とりあえず目の前に
「紳士と淑女 1980~1994」
「紳士と淑女2 1994~1996」の二冊があるので、その感想。
二冊とも単行本の最後に、「主要人名索引」があるので、人名を探すのには困りません。
けれども、私は読む気にはならないなあ。
月刊雑誌文藝春秋の最後の方にある「蓋棺録」の方が、私には楽しめます。
ちょっと、人名辞典としては役に立つかもしれないのですが、そこまで。
けれども、せっかくですから「まえがき」(1994年9月)から引用。
「世界に冠たる平和憲法によって戦力を放棄し、おかげで経済的繁栄を築いたのだという日本インテリの幻想は、その幻想に酔う間も米軍が日本列島を守ってくれている事実を都合よく忘れたものだが、多くの日本人はそれに気付いていないようだった。かえってこの平和主義を世界に広めなければと力みかえる者さえいた。」
「私はもともとニュースの本流を展望して、日本の政局がこれからどうなるか国際経済がこの先どんな方向に動いていくかを考えるより、些事におかしみを感じるたちだった。・・・もともと政治に限らず、人間が集団を組んでする行為は、原則に則るより原則を外れる場合が多いのだと考える。はっきり言えば、この世はなんでもありの世の中なのだ。理屈は、どうにでもくっつく。」
う~ん。有体(ありてい)に言えば、私の食わず嫌いなのですが、
たまたま、ひらいた箇所が興味深いので引用しておきます。
1993年(p744)
「いま朝日新聞編集委員という肩書きで、毎晩テレビ朝日系『ニュースステーション』で久米宏の隣にすわって、したり顔の解説などしている和田俊という男。知らない人は何の気なしに見ているが、彼は元プノンペン特派員で、言ってみればポル・ポト派のお先棒をかついだ男なのだ。1975年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領し、その直後からカンボジア国民の大殺戮を始めた。殺された者は百万とも三百万ともいわれる。妊婦も病人も女も子供も殺され、カンボジアは血で彩られた。いまでも各地で集団墓地が見つかっている。ポル・ポト派が今なお銃口に頼っているのは知ってのとおりだ。和田は、そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、次のように書いた。
【カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。しかも解放勢力の指導者がプノンペンの【裏切り者】たちに対し、『身の安全のために、早く逃げろ』と繰り返し忠告した。これを裏返せば『君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑もしなければならない。それよりも目の前から消えてくれた方がいい』という意味であり、敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度とカンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、新生カンボジアは、いわば『明るい社会主義国』として、人々の期待にこたえるかもしれない。】(「朝日」75年4月19日夕刊)
プノンペンにいずにプノンペンを見るがごとく書いたこの大ウソ記事が出たころには、すでに解放(!)勢力による虐殺と処刑が始まっていた。首都に残った(和田とは違って)勇敢な外国人記者たちも、フランス大使館構内に逃げ込んで、わずかに難を避けたのである。カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、折りに触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。『あんなことを書いてしまったヤツは、もう世間に顔向けできないだろうなあ』と、和田を憫笑(びんしょう)した。
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、その解説を茶の間の日本人はうなずきながら聞いているのである。日本のために、これは泣くべきことか、それとも笑うべきことか。『朝日』の素粒子(6月8日夕)は言う。『苦く思い出す、日本はかつてポル・ポト派政権承認国だった事実を。国民の関心は薄かった』
何を言うか。『粛清の危険は薄い?』と見出しのついた和田俊記者の前記記事、『カンボジア解放勢力米軍侵攻に耐えて 旧敵のシ殿下とも結束』と大見出しのついた記事(75年4月17日)、『プノンペンの戦い終わる』と題する社説(75年4月18日)、『農村復興に最重点 腐敗?した都市の空気恐れ プノンペン解放1ヵ月』の見出しで『解放勢力による大量処刑の情報がもっぱら米国筋から流された。・・・しかし、これらの米国情報は、いずれも日付、場所などの具体性に欠けている』と書いた和田の記事(75年5月17日)などなど。国を誤ったのは政府ではなく、ポル・ポト派という『解放勢力』に恋した『朝日新聞』である。」(p744~745)
う~ん。とりあえず目の前に
「紳士と淑女 1980~1994」
「紳士と淑女2 1994~1996」の二冊があるので、その感想。
二冊とも単行本の最後に、「主要人名索引」があるので、人名を探すのには困りません。
けれども、私は読む気にはならないなあ。
月刊雑誌文藝春秋の最後の方にある「蓋棺録」の方が、私には楽しめます。
ちょっと、人名辞典としては役に立つかもしれないのですが、そこまで。
けれども、せっかくですから「まえがき」(1994年9月)から引用。
「世界に冠たる平和憲法によって戦力を放棄し、おかげで経済的繁栄を築いたのだという日本インテリの幻想は、その幻想に酔う間も米軍が日本列島を守ってくれている事実を都合よく忘れたものだが、多くの日本人はそれに気付いていないようだった。かえってこの平和主義を世界に広めなければと力みかえる者さえいた。」
「私はもともとニュースの本流を展望して、日本の政局がこれからどうなるか国際経済がこの先どんな方向に動いていくかを考えるより、些事におかしみを感じるたちだった。・・・もともと政治に限らず、人間が集団を組んでする行為は、原則に則るより原則を外れる場合が多いのだと考える。はっきり言えば、この世はなんでもありの世の中なのだ。理屈は、どうにでもくっつく。」
う~ん。有体(ありてい)に言えば、私の食わず嫌いなのですが、
たまたま、ひらいた箇所が興味深いので引用しておきます。
1993年(p744)
「いま朝日新聞編集委員という肩書きで、毎晩テレビ朝日系『ニュースステーション』で久米宏の隣にすわって、したり顔の解説などしている和田俊という男。知らない人は何の気なしに見ているが、彼は元プノンペン特派員で、言ってみればポル・ポト派のお先棒をかついだ男なのだ。1975年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領し、その直後からカンボジア国民の大殺戮を始めた。殺された者は百万とも三百万ともいわれる。妊婦も病人も女も子供も殺され、カンボジアは血で彩られた。いまでも各地で集団墓地が見つかっている。ポル・ポト派が今なお銃口に頼っているのは知ってのとおりだ。和田は、そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、次のように書いた。
【カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。しかも解放勢力の指導者がプノンペンの【裏切り者】たちに対し、『身の安全のために、早く逃げろ』と繰り返し忠告した。これを裏返せば『君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑もしなければならない。それよりも目の前から消えてくれた方がいい』という意味であり、敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度とカンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、新生カンボジアは、いわば『明るい社会主義国』として、人々の期待にこたえるかもしれない。】(「朝日」75年4月19日夕刊)
プノンペンにいずにプノンペンを見るがごとく書いたこの大ウソ記事が出たころには、すでに解放(!)勢力による虐殺と処刑が始まっていた。首都に残った(和田とは違って)勇敢な外国人記者たちも、フランス大使館構内に逃げ込んで、わずかに難を避けたのである。カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、折りに触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。『あんなことを書いてしまったヤツは、もう世間に顔向けできないだろうなあ』と、和田を憫笑(びんしょう)した。
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、その解説を茶の間の日本人はうなずきながら聞いているのである。日本のために、これは泣くべきことか、それとも笑うべきことか。『朝日』の素粒子(6月8日夕)は言う。『苦く思い出す、日本はかつてポル・ポト派政権承認国だった事実を。国民の関心は薄かった』
何を言うか。『粛清の危険は薄い?』と見出しのついた和田俊記者の前記記事、『カンボジア解放勢力米軍侵攻に耐えて 旧敵のシ殿下とも結束』と大見出しのついた記事(75年4月17日)、『プノンペンの戦い終わる』と題する社説(75年4月18日)、『農村復興に最重点 腐敗?した都市の空気恐れ プノンペン解放1ヵ月』の見出しで『解放勢力による大量処刑の情報がもっぱら米国筋から流された。・・・しかし、これらの米国情報は、いずれも日付、場所などの具体性に欠けている』と書いた和田の記事(75年5月17日)などなど。国を誤ったのは政府ではなく、ポル・ポト派という『解放勢力』に恋した『朝日新聞』である。」(p744~745)