和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

和漢朗詠集

2009-09-13 | 他生の縁
古典へと、他生の縁を足がかりにして踏み込む、
その古典の入口に参入するきっかけ探し。

事典を引くときに、まずは、引きたい事柄・言葉がある。
というように、古典の本を読むときに、
まずは、気になるきっかけがあったりします。
そのタイミングを「他生の縁」ということで
書き込んでみようというこころみ。
さいわい、というか何といいましょうか、私は古典に疎い。
その疎さからすると、見えない古典の入口は、
ここかしこに、ゴロゴロしているようでもあります。


徳岡孝夫著「五衰の人 三島由紀夫私記」(文藝春秋)
松岡正剛著「日本という方法」(NHKブックス)

この二冊に共通する古典として「和漢朗詠集」が登場しておりました。
まずは、「五衰の人」から引用。

昭和42年の話。
「香港取材中に『8月1日付、バンコク特派員』の辞令を東京からの電報で受け取った。・・・帰ってすぐ単身バンコクに赴任した。」(p82)
「日本を発つ前、公団住宅の我が貧弱な書棚を見て、どの一冊を持って行こうかと思案した。前にアメリカの大学に留学したときは『方丈記・徒然草』を持参したが、学校の宿題(アサインメント)に追われるあまり読む暇がなかった。・・・結局、少し迷ったすえ、岩波の日本古典文学大系から『和漢朗詠集・梁塵秘抄』一冊を抜き出して荷物に加えた。バンコクは、ただ暑いだけの熱帯だが『和漢朗詠集』には日本の四季、風土、人情の精髄が詰め込まれている。万葉古今の秀歌もあれば、王朝の才女たちが愛してやまなかった唐詩の佳句もある。白氏文集からの引用は、補注を見れば長恨歌など原詩全文が載っている。千年前、いわば平安朝のリーダーズ・ダイジェストだが、それは繊細微妙な日本文化の色合いの溢れる花籠である。その本をバンコクで誰かに貸そうなど、そのときは考えてもみなかった。」(p83)

この本を読み終わってから、すこしたって、そういえば、和漢朗詠集について松岡正剛著「日本という方法」に面白い記述があったと気づきました。
なんのことはない、この二冊を最近続けて読んだから、気づいたまでのことです。
では松岡氏の本から引用。
その第3章「和漢が並んでいる」に、こんな箇所があります。

「日本文化史でたったひとつ決定的な【発明】を言えと問われたら、私は迷うことなく仮名が発明されたことをあげます。」(p57)

さて、その同じ章に和漢朗詠集への記述があるのでした。

「私は、菅原道真が『新撰万葉集』で漢詩と和歌を対応させて編集したと言いました。この方法はとても重要なもので、それをさらに発展させたのが関白頼忠の子の藤原公任(きんとう)が編集した『和漢朗詠集』でした。
勅撰ではなく、自分の娘が結婚するときの引出物として詞華集を贈ることを思いついて作ったものです。当時、貴族間に流布していた朗詠もの、つまりは王朝ヒットソングめいたものに自分なりに手を加え、新しいものをふやして贈ることにした。それだけでは贈り物にならないので、これを達筆の藤原行成(こうぜい)に清書してもらい、粘葉本(でっちょうぼん)に仕立てます。まことに美しい。
材紙が凝っていました。紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に雲母(きらら)引きの唐花文(とうかもん)を刷りこんでいる。行成の手はさすがに華麗で変容の極みを尽くし、漢詩は楷書・行書・草書をみごとな交ぜ書きにしています。和歌は行成得意の草仮名です。これが交互に、息を呑むほど巧みに並んでいる。
部立(ぶたて)は上帖を春夏秋冬の順にして、それをさらに細かく、たとえば冬ならば『初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霰・仏名』と並べています。・・・・これをアクロバティックにも、漢詩と和歌の両方を交ぜながら自由に組み合わせたのです。漢詩が588詩、和歌が216首。漢詩一詩のあとに和歌がつづくこともあれば、部立によっては和歌がつづいて、これを漢詩が一篇でうけるということも工夫している。・・」(p69)


さて、ここまでが、私が出会った「和漢朗詠集」への入口。
この門を入るかどうか?
それは、すでにご存知のように、また別のことなのでした(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする