朝日新聞文章読解。その傾向と対策。
徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女1980~2009」(文春新書)にある、30年間にわたる雑誌「諸君!」巻頭コラム「紳士と淑女」(新書は精選コラム)。そこから、朝日新聞をとりあげた箇所をピックアップすることの重要さと魅力。以下は引用列挙。
1984年8月号
「例によって例の如く朝日編集委員の大特集『北朝鮮【金正日時代】へ着々』(6月6日夕刊)。切り抜いて後日のために保存しておこう。
『代表団が平壌市内の幼稚園を訪れた時、園児たちがいくつかの歌を聞かせてくれたが、その一つは【金正日先生ありがとう】だった。代表団はまた平壌にある三階建ての鉄道省革命事蹟館電化分館を見学したが、三階部分はすべて金正日書記がいかに鉄道の電化に力を注いできたかを写真などで示した展示館だった。ともあれ、金正日時代に向けての体制固めが着々と進行している感じだった』
このほか、客観描写を装いつつ、この記者はしきりに『着々』『建設』『さらに好転』『落ち着きを増し』『自力で』とプラス面を印象づけようとしている。1950年代のソ連、60年代の中国に感激し続けてきた新聞社だから、いまさら文句はないけれど・・・」
これが、いまから25年前のコラム。この新聞社の文章の傾向と対策を以下拾ってゆきます。インフルエンザと同じように抵抗力がないと、すぐに感染しやすい朝日新聞記事への免疫抗体づくりのために、ここはていねいに列挙。
時代によって北朝鮮の拉致問題の報道は、かわってゆくわけですが、
2000年2月号から。
「ほらね、やっぱり心配した通りになった。村山訪朝団は平壌で金容淳ひとりの長広舌を拝聴し、向うの言いなりに拉致事件や不審船問題をタナ上げしてしまった。あれほど頼んだ横田めぐみの両親の訴えを、きれいさっぱりと忘れ、国交正常化交渉の再開と食糧支援を約束して帰ってきた。あれで国会議員か。子供の遣いじゃないか。
マスコミも『産経』を外させた北朝鮮に抗議ひとつせずに帰ってきた。帰るとすぐ、NHKは『いわゆる拉致事件』と言い出した。何がいわゆるだ。拉致そのものではないか。・・・・
金容淳は同行記者団に向かって、こう言ったという。
「【拉致】という言葉を使ったら何も解決しない。・・・マスコミも注意すべきだ。どのマスコミが【拉致】という表現を使っているか、一字一句を調べたい」
こんなことを言われ、よく黙っていたなあ。あれほど警察の電話盗聴に反対したくせに、北朝鮮の検閲には、怒る社説が一つもない。
すべては70年代の悪名高い『中国報道』のおさらいである。『朝日』の特派員ただ一人が北京滞在を許され、文革下の中国べったりの記事ばかり書いた。毛沢東の後継者に指名された林彪副首席が謀反を起して死んだのに『何かあったという報道は西側の謀略だ』と書き続けた。『産経』を除く各紙は、北京に特派員を置かせてもらおうと、鞫(訇は匊)躬如(きつきゅうじょ)として中国政府の意を迎えた。
あれの繰り返しである。各紙各局は、すでに村山訪朝団の『成功』を称えている。日本のマスコミは、政治家に輪をかけた、冷血漢、売国奴である。」
つぎはどなたも記憶に新しい2003年1月号から(p299)
「痛々しいほどおばあちゃんに生き写しのキム・ヘギョン(15歳)の顔がアップになり、はらはらと涙をこぼす。『おじいちゃん、おばあちゃん、なぜ会いに来てくれないの。私は日本に行けません』と、これは『朝日』『毎日』、フジテレビ。脱走兵ジェンキンス(62歳)と二人の娘が並んで座り『お母さんがいないので、ご飯がのどを通りません』『デモを起してでも妻を帰すよう日本政府に訴えてください』、こちらは『週刊金曜日』。
涙を拭ってよく考えてこらん。日本に帰った五人を返せとは、彼らが犯した誘拐・監禁という罪の結果を、犯罪進行中の状態に戻せということなのだ。夫は子を『人質』に取り、情にからんで拉致という犯罪を再び継続しようとは、金正日しか思いつかない正邪転倒の発想である。・・・全体主義に選別、招待されて情報を貰うメディアは、必ず『そこに情報があったから報道した。どう判断するかは読者の自由だ』と言う。詭弁である。文化大革命の間、北京に住むのを許された『朝日』秋岡家栄特派員と、彼を庇った『朝日』が、どんなに日本人の中国観を歪めたか――ちょっと思い出してもらいたい。全体主義の誘いに乗る自由メディアは、情報という弾丸が命中しやすいよう、彼らの銃口を支えてやっている。」
う~ん。では悪名高いという『中国報道』を簡潔に、1980年8月号から
「人民日報の自己批判をうけて、朝日(6月14日夕刊)の素粒子はこう書いた。
『権より強きペンを鍛えるべく、われらもまた自戒。文革追従の過ちを、人民日報自己批判』朝日人よ、今日の日本ではすでにしてペンこそ最強の権であるのを知らないのか。まだこのうえに、鍛えよというのか!
1971年9月21日、国慶節パレードの中止を、AFP北京支局が打電。
同9月30日 モンゴルのモンツァメ通信が中国機のモンゴル領内墜落を報道。
同10月9日 『林彪の身に何かが起こった』とニューヨーク・タイムズ。
同11月16日 林彪失脚説を日本向けモスクワ放送。
そして同11月25日の朝日紙上では、『たった一人の北京特派員』秋岡家栄が、
『北京では一部右派系新聞の間に林彪副首席の失脚説が流れていた。そういう報道を読んだあと、深圳の税関でまず目についたのが、控室に掲げられた毛首席と林彪副首席が並ぶ大きなカラー写真だった。・・・・今日の中国で起こっている事態をより正確に理解するためには、時間という要素をかけて、ながめることが必要である』
・・・・・
素粒子のさりげない三行で自己免罪は完了なのか?
人民日報のほうが、よほど正直。 」
P237に「彼らにとって、神は常に日本の外にいた。最も憎むべきは日本のナショナリズムであり、誉むべきは他国のナショナリズムだった」という箇所があります。
う~ん。では、こんな箇所も引用しておきましょう。
1999年11月号。
「農水省で定例の事務次官会見が、記者クラブ内の一部をアコーデオンカーテンで仕切った記者会見場で行われようとした。職員が国旗である日の丸と三脚を持ち込もうとした。するとクラブ加盟の朝日新聞と北海道新聞と共同通信の記者が立ちふさがって、国旗の入室を阻んだ。朝日新聞広報室は『立ちふさがったという事実はない』と釈明したから、たぶん立って、ふさがっただけなのだろう。
事件のあったのは9月2日。その後の農水相や次官の記者会見はどうなっているのか。国旗は会場に『定着』したのか?・・・・・問いたいことは山ほどあるが紙幅がないので、ここでは印象評論にとどめよう。
会見場に向かう国旗と次官の前に立ち、通路をふさいだ三記者は、口々に『話を聞いてください』『大臣も強制はしないと言っていたじゃありませんか』『国旗を持ち込まないで会見を開きましょうよ』と叫んだという(読売9月3日)。思わず呵々大笑した。典型的な左翼の言葉遣いである。
左翼、たとえば日教組は、勤評闘争いらい『ぶっ潰せ』とは絶対に言わなかった。『やめましょうよ』『話し合いましょう』と、猫撫で声で校長を何十時間も吊し上げた。降参するまで許さない。追いつめられて自殺した校長が何人もいた。その左翼の口調を『朝日』以下の三人が言ったのだ。
新聞社、通信社はレッキとした私企業である。なのに各官庁、各自治体、国会、各裁判所、各警察のトップが執務する中枢フロアの一等地にクラブ室を持ち、大変な権力を握っている。いわゆる『新解釈』により、記者クラブは取材の拠点で、記者会見は記者クラブが主催するものと定義された。・・・・彼らは家賃はおろか光熱費、電話代、女の子の給料などビタ一文払わない。税金の窃盗に等しい行為だが、それでも足りず、彼らはクラブ室に治外法権を適用する。農水省が自分のビルの中で国旗をどこへ動かそうと、農水省の勝手ではないか。家賃払ってないくせに、何が『話し合いましょうよ』か。
『朝日』社説は『記者にとって会見場は日常の仕事場である』と言い、そこへ『ことさらに国旗を持ち込む。不快に思うのは、踏み絵を踏ませるような貧しい心根を感じる』から反対だと書いた。
おお、よくも言った。高校の卒業式という非日常的な場に日の丸を掲げるのに反対したのはどこのどいつだ。形勢不利と見れば一歩退き、日常的な仕事場に国旗はけしからんと言い張る。お前さんの根性にこそ貧しい心根を感じるよ。」
うん。このくらいにして、
「完本紳士と淑女」の中で朝日新聞を取り上げた箇所。
私が印象に残ったページだけですが、索引として、どこにあったかを記しておきます。
p19「人民日報のほうが、よほど正直」
p37「無難な記事のお手本」
p47「沖縄」
p53「戸塚宏」
p57「永久保存とする」
p67「金日成」
p84「朝日新聞・田岡俊次記者」
p99「小尻知博記者の死」
p101「値段の高い生命と安い生命がある」
p117「八重山列島のサンゴ破壊事件」
p178「テレビ朝日報道局長椿貞良の談話」
p212「昭和28年「こども」のページ」
p237「韓国からの通信」
p252「石川校長の死」
p257「国旗」
p299「メディアの詭弁」
p323「イラク国民議会選挙投票日の風景」
p327「長野総局の西山卓記者(28歳)」
徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女1980~2009」(文春新書)にある、30年間にわたる雑誌「諸君!」巻頭コラム「紳士と淑女」(新書は精選コラム)。そこから、朝日新聞をとりあげた箇所をピックアップすることの重要さと魅力。以下は引用列挙。
1984年8月号
「例によって例の如く朝日編集委員の大特集『北朝鮮【金正日時代】へ着々』(6月6日夕刊)。切り抜いて後日のために保存しておこう。
『代表団が平壌市内の幼稚園を訪れた時、園児たちがいくつかの歌を聞かせてくれたが、その一つは【金正日先生ありがとう】だった。代表団はまた平壌にある三階建ての鉄道省革命事蹟館電化分館を見学したが、三階部分はすべて金正日書記がいかに鉄道の電化に力を注いできたかを写真などで示した展示館だった。ともあれ、金正日時代に向けての体制固めが着々と進行している感じだった』
このほか、客観描写を装いつつ、この記者はしきりに『着々』『建設』『さらに好転』『落ち着きを増し』『自力で』とプラス面を印象づけようとしている。1950年代のソ連、60年代の中国に感激し続けてきた新聞社だから、いまさら文句はないけれど・・・」
これが、いまから25年前のコラム。この新聞社の文章の傾向と対策を以下拾ってゆきます。インフルエンザと同じように抵抗力がないと、すぐに感染しやすい朝日新聞記事への免疫抗体づくりのために、ここはていねいに列挙。
時代によって北朝鮮の拉致問題の報道は、かわってゆくわけですが、
2000年2月号から。
「ほらね、やっぱり心配した通りになった。村山訪朝団は平壌で金容淳ひとりの長広舌を拝聴し、向うの言いなりに拉致事件や不審船問題をタナ上げしてしまった。あれほど頼んだ横田めぐみの両親の訴えを、きれいさっぱりと忘れ、国交正常化交渉の再開と食糧支援を約束して帰ってきた。あれで国会議員か。子供の遣いじゃないか。
マスコミも『産経』を外させた北朝鮮に抗議ひとつせずに帰ってきた。帰るとすぐ、NHKは『いわゆる拉致事件』と言い出した。何がいわゆるだ。拉致そのものではないか。・・・・
金容淳は同行記者団に向かって、こう言ったという。
「【拉致】という言葉を使ったら何も解決しない。・・・マスコミも注意すべきだ。どのマスコミが【拉致】という表現を使っているか、一字一句を調べたい」
こんなことを言われ、よく黙っていたなあ。あれほど警察の電話盗聴に反対したくせに、北朝鮮の検閲には、怒る社説が一つもない。
すべては70年代の悪名高い『中国報道』のおさらいである。『朝日』の特派員ただ一人が北京滞在を許され、文革下の中国べったりの記事ばかり書いた。毛沢東の後継者に指名された林彪副首席が謀反を起して死んだのに『何かあったという報道は西側の謀略だ』と書き続けた。『産経』を除く各紙は、北京に特派員を置かせてもらおうと、鞫(訇は匊)躬如(きつきゅうじょ)として中国政府の意を迎えた。
あれの繰り返しである。各紙各局は、すでに村山訪朝団の『成功』を称えている。日本のマスコミは、政治家に輪をかけた、冷血漢、売国奴である。」
つぎはどなたも記憶に新しい2003年1月号から(p299)
「痛々しいほどおばあちゃんに生き写しのキム・ヘギョン(15歳)の顔がアップになり、はらはらと涙をこぼす。『おじいちゃん、おばあちゃん、なぜ会いに来てくれないの。私は日本に行けません』と、これは『朝日』『毎日』、フジテレビ。脱走兵ジェンキンス(62歳)と二人の娘が並んで座り『お母さんがいないので、ご飯がのどを通りません』『デモを起してでも妻を帰すよう日本政府に訴えてください』、こちらは『週刊金曜日』。
涙を拭ってよく考えてこらん。日本に帰った五人を返せとは、彼らが犯した誘拐・監禁という罪の結果を、犯罪進行中の状態に戻せということなのだ。夫は子を『人質』に取り、情にからんで拉致という犯罪を再び継続しようとは、金正日しか思いつかない正邪転倒の発想である。・・・全体主義に選別、招待されて情報を貰うメディアは、必ず『そこに情報があったから報道した。どう判断するかは読者の自由だ』と言う。詭弁である。文化大革命の間、北京に住むのを許された『朝日』秋岡家栄特派員と、彼を庇った『朝日』が、どんなに日本人の中国観を歪めたか――ちょっと思い出してもらいたい。全体主義の誘いに乗る自由メディアは、情報という弾丸が命中しやすいよう、彼らの銃口を支えてやっている。」
う~ん。では悪名高いという『中国報道』を簡潔に、1980年8月号から
「人民日報の自己批判をうけて、朝日(6月14日夕刊)の素粒子はこう書いた。
『権より強きペンを鍛えるべく、われらもまた自戒。文革追従の過ちを、人民日報自己批判』朝日人よ、今日の日本ではすでにしてペンこそ最強の権であるのを知らないのか。まだこのうえに、鍛えよというのか!
1971年9月21日、国慶節パレードの中止を、AFP北京支局が打電。
同9月30日 モンゴルのモンツァメ通信が中国機のモンゴル領内墜落を報道。
同10月9日 『林彪の身に何かが起こった』とニューヨーク・タイムズ。
同11月16日 林彪失脚説を日本向けモスクワ放送。
そして同11月25日の朝日紙上では、『たった一人の北京特派員』秋岡家栄が、
『北京では一部右派系新聞の間に林彪副首席の失脚説が流れていた。そういう報道を読んだあと、深圳の税関でまず目についたのが、控室に掲げられた毛首席と林彪副首席が並ぶ大きなカラー写真だった。・・・・今日の中国で起こっている事態をより正確に理解するためには、時間という要素をかけて、ながめることが必要である』
・・・・・
素粒子のさりげない三行で自己免罪は完了なのか?
人民日報のほうが、よほど正直。 」
P237に「彼らにとって、神は常に日本の外にいた。最も憎むべきは日本のナショナリズムであり、誉むべきは他国のナショナリズムだった」という箇所があります。
う~ん。では、こんな箇所も引用しておきましょう。
1999年11月号。
「農水省で定例の事務次官会見が、記者クラブ内の一部をアコーデオンカーテンで仕切った記者会見場で行われようとした。職員が国旗である日の丸と三脚を持ち込もうとした。するとクラブ加盟の朝日新聞と北海道新聞と共同通信の記者が立ちふさがって、国旗の入室を阻んだ。朝日新聞広報室は『立ちふさがったという事実はない』と釈明したから、たぶん立って、ふさがっただけなのだろう。
事件のあったのは9月2日。その後の農水相や次官の記者会見はどうなっているのか。国旗は会場に『定着』したのか?・・・・・問いたいことは山ほどあるが紙幅がないので、ここでは印象評論にとどめよう。
会見場に向かう国旗と次官の前に立ち、通路をふさいだ三記者は、口々に『話を聞いてください』『大臣も強制はしないと言っていたじゃありませんか』『国旗を持ち込まないで会見を開きましょうよ』と叫んだという(読売9月3日)。思わず呵々大笑した。典型的な左翼の言葉遣いである。
左翼、たとえば日教組は、勤評闘争いらい『ぶっ潰せ』とは絶対に言わなかった。『やめましょうよ』『話し合いましょう』と、猫撫で声で校長を何十時間も吊し上げた。降参するまで許さない。追いつめられて自殺した校長が何人もいた。その左翼の口調を『朝日』以下の三人が言ったのだ。
新聞社、通信社はレッキとした私企業である。なのに各官庁、各自治体、国会、各裁判所、各警察のトップが執務する中枢フロアの一等地にクラブ室を持ち、大変な権力を握っている。いわゆる『新解釈』により、記者クラブは取材の拠点で、記者会見は記者クラブが主催するものと定義された。・・・・彼らは家賃はおろか光熱費、電話代、女の子の給料などビタ一文払わない。税金の窃盗に等しい行為だが、それでも足りず、彼らはクラブ室に治外法権を適用する。農水省が自分のビルの中で国旗をどこへ動かそうと、農水省の勝手ではないか。家賃払ってないくせに、何が『話し合いましょうよ』か。
『朝日』社説は『記者にとって会見場は日常の仕事場である』と言い、そこへ『ことさらに国旗を持ち込む。不快に思うのは、踏み絵を踏ませるような貧しい心根を感じる』から反対だと書いた。
おお、よくも言った。高校の卒業式という非日常的な場に日の丸を掲げるのに反対したのはどこのどいつだ。形勢不利と見れば一歩退き、日常的な仕事場に国旗はけしからんと言い張る。お前さんの根性にこそ貧しい心根を感じるよ。」
うん。このくらいにして、
「完本紳士と淑女」の中で朝日新聞を取り上げた箇所。
私が印象に残ったページだけですが、索引として、どこにあったかを記しておきます。
p19「人民日報のほうが、よほど正直」
p37「無難な記事のお手本」
p47「沖縄」
p53「戸塚宏」
p57「永久保存とする」
p67「金日成」
p84「朝日新聞・田岡俊次記者」
p99「小尻知博記者の死」
p101「値段の高い生命と安い生命がある」
p117「八重山列島のサンゴ破壊事件」
p178「テレビ朝日報道局長椿貞良の談話」
p212「昭和28年「こども」のページ」
p237「韓国からの通信」
p252「石川校長の死」
p257「国旗」
p299「メディアの詭弁」
p323「イラク国民議会選挙投票日の風景」
p327「長野総局の西山卓記者(28歳)」